2019年9月1日  聖霊降臨後第12主日  ルカによる福音書14章7〜14節
「高慢と謙遜」
  説教者:高野 公雄 師

  《7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」》

  イエスさまがこのたとえ話をされたのは、ファリサイ派の人の家で食事に招かれた時のことでした。その時の様子が1〜6節に記されています。安息日に、イエスさまはあるファリサイ派の議員の家に食事に招かれたのです。この日、イエスさまは安息日の会堂での礼拝で、説教をしたのでしょう。そして、そのお礼までにと食事に招待されたと考えられます。安息日の礼拝の後、友人・親戚を招いて、お昼の食事を楽しく過ごす。それが、現代のイスラエルにも続いている安息日の昼食です。
  イエスさまは招待を受けた客が上席を選ぶ様子を見て、こう言われました。《婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる》。
  これはどの宴席でも見られることで、人間は少しでも他の人の上に立ちたいと願うものであることを示しています。この願いは、自分の価値が隣人よりも高いことを誇りたい気持ちと、それを他の人にも認めさせたい気持ちの表れでしょう。そこでイエスさまは「たとえ」を語られます。すなわち、そこで語られていることは、それ自体を教訓として述べているのではなく、ある他の事態のことを指し示すための比喩であることを忘れてはなりません。この場合は、「神の国」の招きを受けた者の姿勢を指し示す「たとえ」です。イエスさまはしばしば「神の国」を宴席への招きとして語られました。イエスさまの「神の国」告知の働きは、神の国の祝宴への招きです。その招きを受けた者は、自分の価値を言い立てて上席に座るような姿勢ではなく、価値のない者として末席につく姿勢で、その招きを受けなければならないことを指し示しています。この「たとえ」は、自分が律法を順守したことを誇り、その功績によって神の国に入る資格があるとするファリサイ派に対する批判が含意されています。どの席に着かせるかは、招いた方が決めることで、招かれた者が自分で決めることではありません。このことが次の格言で表現され、この招待客についての箇所を締めくくります。《だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる》。つまり、自分で自分を高くする者は、神によって低くされ、自分で自分を低くする者は、神によって高くされるのです。
  私たちが席の順番にこだわるのは、自分の世間での評価というものが気になるからです。しかし、自分に対しての自分の評価と、他人が自分を評価するものとは必ず違っているものです。イエスさまはここで、そのような評価のズレから来るストレスから、全く自由になる道を示してくださっているのです。それが、神の評価の中に生きるという道です。《だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる》とあります。高ぶる者を低くする方は誰か。へりくだる者を高めてくださる方は誰か。神です。私たちは、自分で自分を評価するのでもなく、他人の評価に気を遣うのでもなく、私たちのすべてを知ってくださっている神のまなざしの中に生かされている。ここに、私たちの目と心とを注がなければならないのです。
  イエスさまはここで私たちに謙遜になることを求めています。神の御前に小さくなること、低くなることを求めているのです。神を見上げることを知らなければ、私たちはどうしても他人の目を気にするしかないのです。何とか人の評価を受けようとして、大きく見せようとすることだって起きてくる。自分は大した者だと思いたがる。イエスさまは、そのことの空しさ、愚かさを見ているのです。しかし、イエスさまはその空しさ、愚かさの中に生きている私たちをあざ笑っているのではありません。そうではなくて、その空しさ、愚かさから私たちを解き放つために、私たちを招いているのです。私の所に来なさい。私と同じ低きに生きよう。そう招いておられるのです。
  この謙遜の道は、キリストの道ですから、愛の道となります。イエスさまはただ人前で偉そうにするなと言われているのではありません。低くなる、謙遜になるということがどうしても必要なのは、そうでなければ愛の道を歩むことができないからなのです。愛は仕えることです。自分が偉くなって、大きくなって、どうして仕えることができるでしょうか。自分が小さくなると、小さな人が見えてくる。小さな人の心の痛み、悩みが見えてくる。そこに、そのような人々との関わり方が変わってくる。見下すのではなくて、愛する、仕えるという歩みがそこから始まるということなのです。
  謙遜になるというのは、後で高めてくれるから、今は低いふりをしていようということではありません。そうではなくて、低さの中に本当の高みを見るということなのです。パウロはイエスさまの謙遜について、こう述べています。《キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました》(フィリピ2章6〜9)。徹底的に末座につかれたイエスさまを神は一番高い上座に引き上げられたというのです。「自分を低くする者は神によって高くされる」、このイエスさまの言葉を謙遜に受け止めて、私たちはイエスさまの歩まれた謙遜の道を歩んでいきたいと思います。

  イエスさまは、続いて、招く側の主人に向かって、招くときの心構えを語りますが、これもたんなる社会生活上の勧告ではなく、「神の国」のたとえです。《宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる》とあるように、イエスさまは、お返しすることができない人々に、報いを求めないで食事に招くように言われました。報いを求めない。それは、報いてくださるのは神だからです。
  当時の社会では「体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」などの障害者は差別され、物乞いをしなければ生きていけないような人たちでした。そのような「貧しい人たち」はお返しができないから、そのような人たちを招待した人は、その善意の報いを招かれた人から受けるのではなく、神から受けるようになるので、幸いだと言われます。貧しい者を顧みられる神は、そのような貧しい恵まれない人たちが受けた善意は、自分に対してなされた善意として見ておられるからです(マタイ25章34〜40)。
  このようにお返しができない貧しい人たちを招く主人の姿は、神が資格のない者を無条件絶対の恵みをもって神の国に招いておられることの比喩です。この恵みの招きは、イエスさまがユダヤ教社会では罪人として疎外されている徴税人や遊女たちと食事を共にして仲間であることを示された行動によって具体的に示されていました。今その恵みの招きが、貧しい者を宴会に招く主人の姿を比喩として語られているのです。
  ヨハネは「愛は神から出るものである」と言って、神の愛について、こう述べています。《神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちのうちに示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります》(第一ヨハネ4章9〜10)。この神の愛に対して、私たちができるただひとつの応答は、ただこのような自分を愛してくださったことをすなおに受け止め、その愛に感謝して、神に対して砕けた心、悔いた心を献げるだけです、と告白するということです。


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