2019年10月6日  聖霊降臨後第17主日  ルカによる福音書17章1〜10節
「からし種一粒ほどの信仰」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
  5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
  7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」》


  信仰について根本的なことが語られていますので、5節以下を先に読みたいと思います。後の使徒たちである弟子たちが、《わたしどもの信仰を増してください》と願ったとき、イエスさまは、《もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう》と答えています。「からし種」は粉のように小さな粒です。その一粒ほどの信仰があれば、驚くような奇跡を行うことができるというのです。信仰とは何か自分の内にある能力の多い少ないの問題ではなく、信じるか信じないかの問題だということです。イエスさまが罪人である私のために十字架にかかって死ぬことによって、本当に悔い改めているとは言えない私たちを無条件に赦して、主の僕としてくださった。信仰とは、その無条件の赦しに自分を明け渡して、主の僕として生きてゆくことです。
  この「からし種一粒ほどの信仰」とはどういう質のものか、7節以下の「主人に仕える僕」のたとえが説明します。《あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合》とあります。この「僕」というのは、雇い人ではなくて奴隷のことです。奴隷を使って畑仕事や家畜の世話をさせることは当時珍しいことではありませんでした。奴隷を使っている人は、《その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか》。これは奴隷の虐待ではありません。奴隷とはそういうものなのです。そういう僕と主人の関係が、《命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか》と言い表されています。当時の人々にとっては、それは当たり前のことです。イエスさまは、《あなたがたも同じことだ》と言います。だから、《自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい》とイエスさまは言うのです。これが「信仰を増してください」という願いに対するイエスさまの答えです。ここに、イエスさまを信じる信仰者として生きるとはどういうことかの根本が示されています。信仰者とは、主イエスさまの僕として生きる者なのです。雇い人は、雇い主に労働を提供し、その対価、見返りを受けるのです。しかし僕は、給料や見返りを求めて働くのではありません。主人の感謝すら期待すべきではないのです。僕は命じられたことは何でもしなければなりません。そしてそれをすべて果たしたとしても、それは何ら立派なこと、褒められるべきことではなくて、《しなければならないことをしただけ》なのです。信仰者として生きるとは、イエスさまの、そしてイエスさま父である神の、このような僕として、主人に仕えて生きることなのです。
  それでは、主人であるイエスさまが、僕である私たちに命じること、私たちが「しなければならないこと」とは何でしょうか。それが1〜4節に語られています。
  ひとつは、《小さい者の一人をつまずかせる》者になるなということです。つまずかせるとは、人がつまずいて転んでしまう原因となる、障害物を置いて邪魔をするということです。人の信仰の歩みの邪魔をし、その人が神を信じ信頼して喜んで神に仕えて生きることができなくしてしまうこと、それがつまずかせることです。《つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である》とあります。信仰者として生きていく中で、その歩みが妨げられ、元気や勇気を奪われてしまうようなことは必ず起ってきます。ただでさえつまずきに満ちた中を歩んでいる仲間の歩みを、つまずかせてしまうようなことをしてはならないのです。それは、人の能力や価値とは無関係に、恵みによってご自分の民を招いてくださった神への大きな罪となります。
  「これらの小さい者の一人を」とあることにも注目しなければなりません。つまずきに陥るのは多くの場合、小さい者、つまり信仰の浅い者や教会で重要視されていない信徒です。それらの人々をつまずかせるのは、信仰が大きく強い人です。強い信仰を持っている人が、信仰者たるものこうでなければならないと言って、そのような強い信仰に生きることのできないでいる小さく弱い人を批判し、傷つけ、それによって勇気や元気を奪い、つまずかせるのです。イエスさまは、ご自分に従い仕える信仰者たちに、つまり私たちに、そのように小さく弱い人をつまずかせることのない者となることを求めています。主の僕として生き、主に仕えることにおいて第一に考えなければならないのはこのことです。信仰者として少しでも立派になり、神にほめてもらおうとする、そういう雇い人の思いによって、自分の信仰と実践を誇り、小さくて弱い人を批判したり蔑んだりするようになるのです。自分が僕であることをしっかりわきまえて、また信仰の兄弟姉妹の一人一人が自分と同じ主の僕であることを認め、その人をも僕として用いておられる主のみ心に従い、自分に与えられている務めを果たすと共に、主がその人にもその人に相応しい務めを与えておられることを認めて、その人と共に歩むということです。つまずきをもたらすことのない者となるためには、主の僕であることに徹することが必要なのです。
  ふたつには、《もし兄弟が罪を犯したら》ということが語られています。その時には、《戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい》とあります。信仰の兄弟姉妹の間で起る罪にどう対処するか、ということです。イエスさまはそこで先ず、「戒めなさい」と言っています。罪をそのままにしてはいけないということです。きちんとそれを指摘し、戒め、悔い改めを求めることを主は命じています。しかしここで忘れてならないのは、《悔い改めれば、赦してやりなさい》ということです。戒めるのは、赦すためです。赦すことによって良い交わりを回復することこそが目的なのです。この目的を見失って、ただ罪を責め、断罪することだけになってしまってはなりません。イエスさまはここでさらに、《一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい》と言っています。これは、マタイ福音書の《七回どころか七の七十倍までも赦しなさい》(18章22)と同じことで、兄弟の罪を無条件に赦しなさいということです。兄弟姉妹に対して、そのような無条件の赦しの思いの中でこそ、本当に相手の罪を戒めることができるということでしょう。赦すことは、戒めないことではありません。戒めることと赦すことの両方がしっかりとなされるような関係、交わりを、信仰に生きる兄弟姉妹の間で築くことをイエスさまは求めておられるのです。赦しを欠いた戒めは、イエスさまによる赦しに生きる信仰を妨げ、元気や勇気を奪います。また戒めることを欠いた赦しは、その人が罪を悔い改め、イエスさまの赦しにあずかって生きることを妨げ、信仰の歩みを滞らせるのです。「小さな者の一人をつまずかせるな」という教えと、「兄弟の罪を戒め、赦しなさい」という教えはそのように深く結び合っているのです。
  僕は主人に感謝されることも、褒められることも、報いを与えられることも期待すべきものではありません。しかしイエスさまは12章35節以下で、僕が「しなければならないこと」をわきまえ、それを行うならば、主人がしてくださることをこのように語っています。《主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる》(12章37)。私たちが、主の僕であることをわきまえ、主のみ心に従って主に仕えて生きようとすることを、主イエスさまは心から喜んでくださり、僕であるはずの私たちに仕えてくださり、十字架の死と復活によって打ち立てられた永遠の命にあずからせてくださるのです。


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