2019年10月13日  聖霊降臨後第18主日  ルカによる福音書17章11〜19節
「感謝するサマリア人」
  説教者:高野 公雄 師

  《11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」》

  《イエスはエルサレムに上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた》と始まります。ルカは、ただ道順を記しているのではなく、イエスさまのエルサレムへの旅は、福音がユダヤ人の間から、異邦人へと広がってゆく旅路でもあると言っているのです。
  《ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った》とあります。ここで、「重い皮膚病」と訳されたこの病は口語訳では「らい病」と訳していました。当時、この病気の者は「神に打たれた者」として、宗教的、社会的に徹底的に差別されたことが、レビ記13〜14章に記されています。重い皮膚病をいやすというのは、重症の病人を治したというだけではなく、祭儀的に汚れた者を清めて、ユダヤ教の社会に復帰させるということです。しかも、ユダヤ教では、死人を生き返らせることと、この病の者を清めることは、神にだけできることとされていましたから、これは重大な意味をもつ出来事だったのです。
  十人の病を患っている人々は、イエスさまから遠く立って、声を張り上げます。この病を患った人は、普通の健康な人には近づいてはいけないことになっていたからです。彼らは、イエスさまが神の力によって病人をいやしていることを聞いていたのでしょう。イエスさまに清められることを願い求めました。憐れみを願うのは、自分には受ける価値とか資格のないことを認めて、相手の無条件の好意にすがる姿勢です。それが信仰です。
  イエスさまは、彼らの窮状を憐れみ、また彼らの信仰を見て、命じます。《祭司たちのところに行って、体を見せなさい》。それは、この病がいやされたかどうかは、祭司が判断し、その祭司による証明によって、社会復帰することができたからです。しかし、このイエスさまの言葉は不思議です。なぜなら、まだこの十人の病人は清められていなかったからです。この人々がいやされたのは、祭司のところに行く途中でした。つまり、彼らはただイエスさまの言葉だけを信じて、まだいやされていないのに祭司のところへ出発した。そして、《彼らは、そこへ行く途中で清くされた》のです。このとき、この十人の病人たちが、清められていないから祭司たちのところに行っても無駄だと思って出発していなければ、彼らは清められず、もとのままの状態に留まったでしょう。私たちも、まだ見ていないイエスさまの救いの御業、いやしの御業を信じて、お言葉ですからと歩いてゆく。それが信仰です。
  しかし、きょうの話の眼目は、その後です。彼ら十人は、皆、祭司のところに行く途中でいやされました。しかし、その中でただ一人だけが、イエスさまのところに戻って来て、イエスさまの足もとにひれ伏して感謝したのです。他の九人も同じようにイエスさまの言葉を信じ、従いました。それゆえに、イエスさまのいやしを受け取ったのです。しかし、イエスさまに感謝するために戻って来たのは一人だけでした。
  イエスさまのいやしにあずかり、大喜びした。それは十人とも同じだったと思います。しかし、九人は祭司のところに急ぎ、一人は戻って来てイエスさまに感謝をささげたのです。この九人の人たちの行動を責めることはできないでしょう。イエスさまが「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われたのですし、祭司による「いやしの証明」がなければ、社会復帰ができないのです。しかし、彼らは、祭司のところに行く道で、自分がいやされたことの喜び、楽しみに心を奪われて、イエスさまへの感謝に心が向かなかったのです。そして、皮肉なことに、イエスさまのもとに感謝するために戻って来たのは、サマリア人だったのです。《そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」》。
  ここには「外国人」という言葉が使われています。新約聖書ではここだけに出てくる言葉です。ユダヤ人以外の民を指すのに、ふつうに用いる「異邦人」という言葉を避けたのは、この言葉が非ユダヤ教徒に対する蔑視の気持ちを含むようになったからでしょう。ユダヤ人に生まれたというだけで神に選ばれた民であるという誇りをもっているユダヤ人に警告する気持ちがあったのかもしれません。十人のうち何人がユダヤ人で何人がサマリア人だったかは分かりません。しかし、戻ってきたのが一人のサマリア人だけだったのですから、ユダヤ人は誰も戻って来なかったわけです。このことは、イエスさまの教えを身近に受けたことを誇るユダヤ人に対する警告となっています。ルカが、「善いサマリア人」のたとえ」(10章)など、繰り返しサマリア人を持ち上げるのは、福音が異邦人に至るのは神の御計画だとする基本的な主張の一つの例です。
  サマリア人は、元々同じイスラエルの民ですが、アッシリアによって滅ぼされて以来、移住してきた異教徒たちとの混血が進みました。また、エルサレム神殿ではなく、ゲリジム山に独自の神殿を築いて礼拝していました。ユダヤ人から見れば、彼らはサマリア教を信じる異端の人々であり、救いにあずかることはないと見られていた人々でした。(ただし、現在では、サマリア教はユダヤ教の一派として認められています)。当時ユダヤ人は、サマリア人が暮らす土地を通ることさえも、忌み嫌ったほどでした。そういうサマリア人が一人だけ、イエスさまのもとに感謝するために戻って来たのでした。
  そして、イエスさまはこの一人の人に対してだけ、《立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った》と言われたのです。十人の病人は、皆、いやされました。しかし、イエスさまから救いの宣言を受けたのは、この一人の人だけだったのです。ここで初めて「救い」という言葉が使われています。十人の病が治った時には、「清くされた」とか「いやされた」という言葉が使われていました。病が治ることと、救われるということは同じではないのです。「病の癒し=救い」と考えるのは、イエスさまの御心ではないということです。
  あのサマリア人は、神を賛美しながら戻って来て、イエスさまの足もとにひれ伏して、感謝しました。神を賛美する人生、イエスさまに感謝する人生、私は、そういう人生こそが「救い」だと思うのです。それは、病が癒されたから、自分の祈りと願いがそのとおり叶ったから、神を賛美し、感謝できるというのではありません。たとえそうでなくとも、私たちは神を賛美し、感謝できる。自分の人生を受け入れ、肯定することができる。神を信じる信仰が、イエスさまの御言葉を信じて従う信仰が、それを可能にするのです。
  感謝というのは、あれこれの人や事柄に対する反応ではなくて、他人と比べずに、ただ自分を大切に生かしてゆくことに日々つとめる、そういう人生全体に対する肯定のことでしょう。病が治ったという事柄に対する感謝ではなく、神の導き、支えの中で生きている、否、生かされて、ここにある、ということを信じるからこその肯定であり、人生受容です。
  あのサマリア人は、祭司のところへ行く「途中で」戻って来ました。戻って来て、賛美し、感謝しました。まだ祭司に治ったことを証明してもらったわけではありません。そういう意味でも「途中」です。癒しが完全な事柄となったわけではありません。しかし、彼は戻って来て、感謝したのです。そのことからしても、私たちの感謝とは、結果が見えてからするものではなく、人生の「途中で」すべきものだということを教えられます。良いことばかりではありません。嘆きもあります。迷いもあります。それでも、人生の基本は、神に感謝し、讃美して生きる。そのように生きられることこそが救いであり、弱い私たちにそれを可能にするのが信仰なのです。
  サマリア人は戻って来て、神に感謝し賛美しました。それは、私たちにとっては、教会に帰って来るということです。教会に帰って来て、感謝し讃美して、御言葉と祝福を補給する。神の導き支えを信じて、自分を受け入れ、人生を肯定する心で生きられるように、魂のエネルギーを補給して、《立ち上がって、行きなさい》と、イエスさまに送り出されていくのです。


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