2019年3月17日  四旬節第二主日  ルカによる福音書18章31〜43
「イエス 三度 死と復活を予告する」
  説教者:高野 公雄 師

  《31 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。32 人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。33 彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」34 十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。》

  イエスさまがご自分の十字架の死について予告するのは、これで三度目です。一度目は、フィリポ・カイサリアでイエスさまが弟子たちに《あなたがたはわたしを何者だと言うのか》と質問した時のことです。ペトロが《神からのメシアです》と答えたのを受けて、イエスさまは《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されテ殺され、三日目に復活することになっている》(9章22)と言っています。
  二度目は、山上の変容のあとのことです。イエスさまは山上で神に祈るうちに、み顔と衣が光り輝くという、生涯でただ一度、神の子としての神々しい姿を弟子たちに現しました。そして、山から下りたあと、イエスさまは弟子たちに、《この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている》(9章44)と話しています。
  そして三度目がきょうの個所で、イエスさまは十二弟子を呼び寄せて言います。《今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する》。
  イエスさまは群衆の間で働き語っていましたが、この時は十二人の弟子だけをご自分の傍に呼び寄せて、秘かに奥義を語り出します。それは、エルサレムに入る時を目前にして、エルサレムでイエスさまの身に起こる出来事に弟子たちを備えるためです。その出来事は弟子たちの思いを超えることになることが分かっているからです。それで、イエスさまは、その出来事は預言者が来たるべき終末的救済者「人の子」について書いたことの実現であることを教えます。弟子たちが、その出来事が神のご計画の成就であることを悟って、その出来事につまずくことがないようにするためです。
  「人の子」という言葉は、旧約聖書以来、メシアという意味で使われるようになりました。イエスさまがご自分のことを「人の子は」という時には、とくに自分が神から派遣されたメシア、神の子であることを自覚し、それを人々に明らかにしようとする時に使います。たとえば《人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう》(5章24)というような時です。
  イエスさまがご自分の十字架の死を語るとき、ことさら、「人の子は」という言い方をしたのは、十字架の死が、自分の単なる正義感の発露としての殉教者の死であるとか、そういう自分の人間的な意志とか行動とかではないということを明らかにしようとしているのです。これは神のご計画なのだ、神がこのような道を用意しているのだということを、イエスさまが深く受け止めているからです。
  なぜ神の子は、神が派遣される救い主は、そのような死を遂げなければならないのでしょうか。それは、この救い主は人間を罪から救うために来たからです。ただ人々を貧困から救うとか、病気で苦しんでいる人を救うとか、虐げられている人間を救い出すために来たのでもなく、罪ある人間をその罪から救い出すために来たからです。この救い主が罪人のひとりになりきって、その罪を担って、十字架で死ぬことが必要だったのです。そうでなければ、私たち人間は自分の罪が分からないからです。イエスさまの死は、《人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を鞭打ってから殺す》、そういう死なのです。それは罪人のための死、罪人になり代わっての死だからです。
  イエスさまはご自分がそのようにして殺されることを予告していますが、最後には、《そして、人の子は三日目に復活する》と言います。「異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる」というところは、受動態で書かれていますが、この最後の復活については、「人の子は三日目に復活する」と、いわば能動態で言うのです。つまり、この復活だけは、神がなさることだということです。
  普通は、聖書では、復活について語られる時には、受動態で語られ、イエスさま自身の自らの力でよみがえるのではなく、神の力でよみがえらされるということを強調するのですが、ここでは十字架の死が人間によるものであるのに対して、その死に勝利する復活は、神がなさることなのだということを示すために、ここだけは「人の子は・・・復活する」という言い方がされているのです。
  このことを聞かされた十二人の弟子たちは、《これらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった》のです。イエスさまがエルサレムでは異邦人に引き渡されて殺されることになると予告したのですが、弟子たちはただ驚き、恐れ、その意味が理解できず、それを尋ねることもできませんでした(マルコ9章32)。彼らが理解できなかったのは、彼らにはこの言葉の意味が「隠されていた」からである、とルカは説明しています。イエスさまの十字架上の死において何が起こったのかという奥義は、神が啓示してくださらなければ誰も理解することはできません。この時の弟子たちにはまだそれは啓示されていませんでした。すなわち、それはまだ「隠されていた」のです。
  この、「見ようとしない」、そして「見ることのできない」弟子たちの話を終えると、次に、エリコの町の、「見たい」と言う盲人の話が始まります。

  《35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。36 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。37 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、38 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。39 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。40 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」43 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。》

  イエスさまがエリコに近づいたとき、ある盲人が道ばたにすわって物乞いをしていました。この盲人は、マルコ10章46では《ティマイの子で、バルティマイという盲人》と名があげられています。エリコはエルサレムの東約二〇キロにあり、ガリラヤからエルサレムに向かう巡礼者が、サマリアを避けてヨルダン川東岸を南下して、ヨルダン川を西に向かって渡ったときに必ず通る町です。イエスさまの一行が最後の過越祭のためにエルサレムに上るときに、ヨルダン川東岸の巡礼路をとったことが分かります。
  ナザレのイエスさまが通るのだと聞かされ、声をあげて《ダビデの子よ、わたしを憐れんでください》と激しく叫びます。イエスさまはその声を聞きつけて、《何をしてほしいのか》と尋ねます。すると盲人は《主よ、見えるようになりたいのです》と答えました。それで、イエスさまは《見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った》と言います。すると、彼はたちまち見えるようになったというのです。肉の目が開かれたと同時に、霊の目も開かれました。これはイエスさまが行った最後の奇跡です。
  この記事は、弟子たちがイエスさまの十字架の出来事を理解できなかったということと結びつけられて、「霊的な盲目」の癒やしを比喩的に表わそうしている記事です。弟子たちがいかに霊的に盲目であったかということです。そうした中で私たちが今求められていることは、求めなくてはならないことは、「見えるようなる」ということなのではないでしょうか。《主よ、見えるようになりたいのです》と私たちは今切実に求めなくてなりません。この癒やされた盲人は、数日後、十字架につかられたイエスさまの姿を仰ぎ見ることになります。イエスさまの十字架の死と、その意味するものが見えるようなること、それをイエスさまは今私たちに求めておられます。「主よ、見えるようになりたいのです」とイエスさまに求める、それが私たちの信仰でなくてはならないということです。私たちもまた霊的な目を開いていただいて、神の恵みを見えるようにしていただきたいと思います。


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