2019年11月3日  聖霊降臨後第21主日  ルカによる福音書19章1〜10節
「ザアカイの救い」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」》

  イエスさまがエリコという町に入った時のことです。その町にザアカイという「徴税人の頭」がいました。この徴税人というのは、税金を取り立てる人ですが、現代の税務署の職員とはまったく違っていました。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていました。ローマは自分たちが直接にユダヤから税金を取らないで、ユダヤ人自身に税金を集めさせました。この地域の税金はいくらと決めて、その値段でその地域の税金を集める権利を売ったのです。そして、この税金を集める権利を買ったのが「徴税人の頭」であり、その人のもとで税金を集めていたのが徴税人です。税金を集める権利を買った額に収益分を上乗せして集めるわけですが、規定以上の余分な取り立てもしたことでしょう。ザアカイは、《金持ちであった》といいます。ユダヤの人々にしてみれば、徴税人というのはローマの手先になって、自分たちから金を巻き上げ、自分は裕福な暮らしをしているとんでもない奴だとなります。実際、当時のユダヤ社会の中で、徴税人はいつも泥棒と同列の罪人とみなされて、完全に差別の対象となっていたのです。
  そのザアカイが住むエリコの町にイエスさまが来ました。人々は皆、イエスさまを見よう、話を聞こうと、イエスさまの周りに集まって来ました。ザアカイもイエスさまを見ようとしましたが、人々は背が低いザアカイのために道を空けてくれません。日ごろから無視されていたのでしょう。そこで、ザアカイは、イエスさまを見るために先回りして、いちじく桑の木に登ったのです。
  さて、ここで、逆転が起こります。イエスさまを見ようとしていたザアカイですが、イエスさま方がザアカイを見つけて、呼びかけたのです。《イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』》。
  それはちょうど、ルカ15章の、あの放蕩息子を待っている父親の姿を思いださせます。父親は自分を去っていった息子がいつ帰ってくるかを毎日のように待っていました。畑仕事を終えた夕方、息子が去っていった方を見つめて待っていたのです。それで息子が帰ってきた時には、父親の方から先に見つけて声をかけたということです。
  ザアカイは驚きました。どうして自分の名前を知っているのか。イエスさまがこのエリコの町に来たのは、ザアカイを求めるためだったからです。ザアカイはそんなことは知りません。けれども、イエスさま御自身、《人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである》と言っています。イエスさまにとって、この「失われたもの」こそ、人々に嫌われ、お金があればいいと考え生きていたザアカイでした。イエスさまは、善人や正しい人を求めに来たのではありません。神に従い、神と共に生きることを見失ってしまった人々。神のもとにある希望と命と平安を失ってしまった人々。そういう人々を捜し出し、神のもとに連れ戻すために来られたのです。イエスさまのこの使命は、有名な「見失った羊のたとえ」(ルカ15章)に印象深く語られています。ザアカイはまさにこのたとえで描かれる「見失った羊」であり、「悔い改める一人の罪人」だったのです。
  イエスさまは、《急いで降りて来なさい》と声をかけ、そして、何と、《今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい》と告げたのです。ザアカイは、喜んでイエスさまを迎えました。しかし、これを見た人々はこう非難します。《あの人は罪深い男のところに行って宿をとった》。イエスさまは罪深い人のところに来て、宿り、その人を救い、その人を神の子として新しくしてくださるのです。イエスさまが来られたのは、そのためだったからです。
  ザアカイはイエスさまに言います。《主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します》。このザアカイの約束は、救いの条件ではありません。これは救いの結果です。ザアカイは変わったのです。イエスさまが自分を見て、呼んで、家にまで来てくれたからです。彼は新しくなりました。イエスさまに出会い、ザアカイの中で大切なものが変わったからです。それまでのザアカイにとって、お金や財産というものは、自分を守るための、自分の鎧のようなものだったのではないでしょうか。しかし、もうイエスさまに出会って、そのようなものは必要がなくなりました。そんなことより大切なことがある。神に造られた者として正しく生きる。神に認めていただいた者としてふさわしく生きる。そんな人生の転換がここで起きたのです。
  このあと、ザアカイがこの誓いを実際に果たしたかどうかは分かりません。実際には果たせなかったかもしれません。しかしイエスさまはそんなことはおかまいなく、《今日、救いがこの家を訪れた》と言っているのです。たとえこの通りにただちに実行されなくても、この誓いは彼の生涯に大きな重みをもつということです。彼の生涯を徐々に徐々に、変えていく、方向をかえていくだろうということです。
  私たちも同じではないかと思います。私たちも神に対して一度誓ったときに、それが神に対してなされた誓いならば、誰が見ていなくても、誰が聞いていなくても、大変な重みをもって私たちの生涯を変えていくことでしょう。洗礼を受けるということは、そういう重みをもつことなのです。神は決して侮られるようなかたではないからです。
  イエスさまはこのザアカイの誓いの言葉を受けて、《今日、救いがこの家を訪れた》と宣言するとともに、《この人もアブラハムの子なのだから》と、ザアカイの救いの根拠をも示しています。これはこのザアカイも選民イスラエルの者だということです。彼は徴税人の頭として、みんなからローマの手先として嫌われ、選民イスラエルの一員ではないと疎外されていました。イエスさまはそれを取り戻してくれたのです。あなたも選民イスラエルの一員なのだ、神が愛される一人なのだということです。つまり、このザアカイを人々の交わりの中に返してあげたということです。今まで人々から疎外されていた、それが取り消され、その人々の交わりの中に入れられたということです。
  しかし、だからといって、おそらく他のイスラエルの人々はこのザアカイを受け入れないでしょう。しかし大切なのは、このザアカイがこのイエスさまの言葉を聞いて、自分もイスラエルの民のひとりだという自覚をもったということです。それが今度は、イスラエルの人々の心をザアカイの方から変えていくかもしれない、ザアカイの方から人々の交わりの中に入っていくということです。最初は人々はザアカイを受け入れないかもしれませんが、ザアカイはねばり強く自分を受け入れない人々の交わりの中に入っていけます。そうする裏付けをイエスさまからいただいたのです。
  このように、《アブラハムの子》という言葉は、当時の人々にとっては、「アブラハムの血筋」であるユダヤ人を指していたわけです。しかし、救いの根拠は血筋ではありません。パウロは、《イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからと言って、皆がその子供ということにはならない》(ローマ9章6〜7)と言って、アブラハムの信仰に立つ者こそ「アブラハムの子」であるとしています(ローマ4章16〜17章)。ザアカイの信仰はまだ十字架と復活の信仰ではありませんが、私たちは、ザアカイを「アブラハムの信仰」に立つ者、律法とは関係なく、信仰によって救われる者という意味の「アブラハムの子」として語り伝えるのです。
  ザアカイにとっては、救われるということは決してただ良いことづくめではなかったでしょう。イエスさまと出会ったばかりに、自分の財産の半分を人々に施さなくてはならなくなったし、不正な取り立てを四倍にして返さなくてはならなくなったし、みんなに嫌われているかもしれない交わりの中に入っていかなくてはならないからです。しかしザアカイにはこれらのことをしていく大きな喜びと力が与えられていました。イエスさまが罪人の客となってくださったからです。ザアカイは、何度も何度も、このイエスさまとの出会いの物語、救いの証しを語ったに違いありません。私たちもまた自分の言葉で証しを語り、隣り人にイエスさまの到来の喜びを伝えていきたいと思います。


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