2018年12月2日  待降節第一主日  ルカによる福音書19章28〜40
「イエスのエルサレム入城」
  説教者:高野 公雄 師

  《28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
  37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。38 「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」》


  イエスさまは《天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められ》(ルカ9章51)て、いまや《先に立って進み、エルサレムに上って行かれた》と記されています。そのとき、イエスさまは子ろばに乗ってエルサレムに入ろうとしました。その準備に弟子たちを遣わすとき、子ろばの持ち主には《主がお入り用なのです》と言うように指示します。ユダヤ教で「主が」は、神の意志によることを意味しますから、その子ろばを用いるのは、それが神の意志から出た聖なる目的のためだと言ったことになります。
  メシアが子ろばに乗って来ることは、旧約聖書のゼカリヤ書の預言に出てきます。《娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和を告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果にまで及ぶ》(ゼカリヤ9章9〜10)
  この預言には、神の計画が示されています。それは、イスラエルから戦車を絶ち、軍馬を絶ち、戦争を絶って、国々つまり全世界の民に平和を告げる道です。相手と戦い、力で支配する道ではなく、高ぶることなく謙遜に、神に従うことによって平和を告げる知らせる者こそ、神が遣わす本物の王だというのです。イエスさまは、この預言をご自分に語りかけられた神の言葉だと受け止めたのです。だからこそ、この預言に従って、子ろばに乗ってエルサレムに入城し、十字架につこうとするのです。イエスさまは、それこそが本当の勝利の道だと確信して、その道を歩む決意を表明したわけです。

  オリーブ山の西側の斜面を下ってくると、キドロンの谷を隔ててすぐ向こう側にエルサレムの都が見えてきます。《エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」》(19章41〜44)。
  イエスさまはエルサレムの都が近づいたときに、その都のために泣いたということです。福音書には、イエスさまが泣いたと記されている箇所は、ここのところとラザロが死んだ記事だけのようです。ラザロが死んだとき、マルタとマリアが《主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに》(ヨハネ11章21、32)と言って泣いている姿を見て、《イエスは涙を流された》(ヨハネ11章35)という箇所です。
  イエスはさまは泣いて、《もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない》と言います。
  イエスさまがこれから歩もうとする十字架の道こそが平和の道であることを、エルサレムの都の人々は知りません。だから、今イエスさまを十字架につけようとしており、それで自分たちは勝ったと思っています。しかし、それはやがて彼らに滅亡の道を歩ませることになるのです。イエスさまはそれを思って、涙を流さざるをえなかったのでしょう。事実この後、紀元70年にエルサレムの都はローマ軍によって破壊されてしまいます。
  報復に対しては報復という道では真の平和は来ないことは、もはや隠されていません。今日、イエスさまの説く平和の道は全世界に伝えられているはずです。それなのに、今日まだこの平和の道を歩むことはできないでいます。このイエスさまの言葉は、今日、個人の問題においても国家の問題としても重みのある言葉であり、私たちは肝に銘じておかなくてはなりません。

  イエスさまがろばの子に乗ってエルサレムに入って来ようとしたとき、イエスさまを慕う人々はみな喜んで、《自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」》と賛美しました。これは、前半は詩118編26の引用、後半はクリスマスの夜現れた天使たちの歌声を思い出させます。彼らはイエスさまがなぜろばの子に乗ってエルサレムに入ろうとしたのか、その真意は理解していないようです。しかしそれでも人々はイエスさまが何かをしてくれるだろうと期待して賛美したのです。
  弟子たちのこの熱狂ぶりを見て、群衆の中にいたあるファリサイ派の人たちがイエスさまに、《先生、お弟子たちを叱ってください》と制止を求めます。こんな騒ぎを起こしてエルサレムに入ろうとしたら、たちまちあなたは捕まりますよ、と注意をうながしたのでしょう。この人たちは、誰かを王であるメシアとして歓呼することがいかに危険であるかを知っていました。イエスさまの時代の前後には、多くのメシア運動が発生し、ローマの厳しい弾圧によって悲惨な結果を招いていました。事実、イエスさまは後に「ユダヤ人の王」という罪状、すなわちメシア僭称者としてローマに反逆した叛徒として処刑されることになります。
  それに対して、イエスさまは、《言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす》と言って、群衆が叫ぶにまかせます。石が叫ぶということはどういうことでしょうか。この言葉を連想させる言葉が旧約聖書にあります。《災いだ、自分の家に災いを招くまで、不当な利益をむさぼり、災いの手から逃れるために、高い所に巣を構える者よ。お前は、自分の家に滅びを招き、自分をも傷つけた。まことに石は石垣から叫び、梁は建物からそれに答えている》(ハバクク2章9〜11)。ここで言われている「石は石垣から叫び」というのは、そういう不正をしている者に対して、普段は沈黙している石ですら、そのことを告発して叫び出すというような意味です。
  しかし、ここでイエスさまが《もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす》と言ったのは、不正を告発するとか、あるいは殺された者の怨念の叫びでもなく、人々が神を賛美する言葉を封じ込めるとするならば、石も叫ぶということです。このとき人々は、まだまだ本当の意味で神を正しく賛美しているわけではありませんでした。ただイエスさまの行なった数々の奇跡を見て、なにか自分たちに良いことをしてくれるだろうと期待して、神を賛美しているのです。しかしそうであったとしても、ここではともかく馬に乗って勇ましく入城しようとするイエスさまではなく、平和の象徴であるろばの子、重い荷物を背負って黙々と歩くろばの子、そのような意味で柔和の象徴であるろばの子に乗って、エルサレムに入ろうとしているイエスさまを歓迎し、そのことで神を賛美しているのです。
  私たちも神を賛美するときに、いつも正しく神を賛美しているとは限りません。はなはだ自分勝手な思いで、神を賛美しているかもしれません。それどころか、数日後にはこの弟子たちの口から賛美の声が消えてしまうのです。しかしそれでもこのとき、イエスさまはその賛美を退けようとはしないで、この賛美の声を黙らせたならば、石が叫ぶ、と言われたのです。私たちがともかく神に向かって頭をあげて神を見上げて、神を賛美するときに、イエスさまはどんなに喜んでいるかということです。私たちの礼拝が心から神を賛美するものでありたいと思います。私たちがこぞって《主の名によって来られる方、王に、祝福があるように》と声を高く上げる礼拝でありたいと思います。


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