2019年11月17日  聖霊降臨後第23主日  ルカによる福音書20章27〜40節
「死者の復活について」
  説教者:高野 公雄 師

  《27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。30 次男、31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。32 最後にその女も死にました。33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。》

  私たちの信仰は、生ける神との交わりです。今朝私たちがここに集まっているのは、この神の前にひれ伏し、この方から御言葉を受け、この方に祈りと讃美を献げ、この方との交わりに生きるためです。この神との交わりを抜きにして、救いについて、信仰について、何を考え語っても空しいことです。
  きょうの御言葉は、イエスさまとサドカイ派の人々との「復活」をめぐる論争です。ここでイエスさまが告げることは、まさにこのことです。あなたは生ける神との交わりの中で考え、語っているのかということです。
  当時のユダヤ教の中には、サドカイ派とファリサイ派と呼ばれる二つの大きなグループがありました。サドカイ派は、大祭司・祭司長といった祭司貴族とその周辺の、神殿を支配する上流階級の人々です。一方ファリサイ派は、民衆がいつも安息日に礼拝を守っていた町や村の会堂を中心にしていた人々で、その代表が律法学者たちです。サドカイ派は書かれた律法(モーセ五書)にしか権威を認めず、復活や天使を認めませんが、ファリサイ派は口伝の律法にも権威を認めて、復活も天使も信じていました。復活があるという信仰は、時代と共に徐々に明らかにされてきたのです。この論争の後で、復活を信じていた律法学者は、イエスさまの答えに対して《先生、立派なお答えです》と言っっています。
  この復活を認めないサドカイ派が、復活など無いということを論証するために考えたのが、きょうの議論です。モーセ五書のうちの申命記を拠り所にしています。七人の兄弟がいた。長男が妻を迎えたが跡継ぎを生まずに死んだ。次男がこの長男の妻を迎えたが、次男も子を生まずに死んだ。こうしてこの女性は、次々と七人の兄弟の妻になったのだが、復活した時にはこの女性は誰の妻になるのか。そういう議論です。この死んだ兄弟の妻を妻として迎えるというのは、申命記25章5〜10に記されています。これをレビラート婚と言いますが、レビルとは「義理の兄弟」という意味のラテン語です。昔は長子による家名の継承が重要でした。日本でも逆縁婚と呼ばれ、戦前までは普通に行われていた慣習でした。
  この議論は、当時サドカイ派とファリサイ派との間でなされていた議論の一つです。ファリサイ派の人々は、その女性は長男の妻となると答えたようですが、イエスさまはこの議論の根本にある誤りを指摘します。イエスさまはこう答えました。《この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである》。イエスさまは、サドカイ派の人々がこの世のあり方をそのまま復活の命にも適用させようとする過ちを指摘して、問いそのものを無効としたわけです。イエスさまは、復活した者はもはや結婚することはないと言います。結婚というものは、この地上において命が継がれてゆくため、そして私たちが責任ある愛の交わりを形成するために、神が与えてくださった恵みの秩序です。だから、次の世においては、復活の命にあずかった私たちは、もはや結婚は必要ないし、それ以上のまったき愛に包まれることとなるのです。それが、天使に等しい者となり、神の子となるということです。私たちは洗礼を受けて生まれ変わり、すでに神の子とされています。まだその実体を持っているわけではありませんが、復活の時には、私たちはまことの神の子であるイエスさまに似た者とされ、まったき愛に生きる者とされるのです。
  私たちもしばしば、サドカイ派の人々と同じ過ちを犯します。神について、救いについて考える時に、自分の頭の中で理解できるように、自分の理解の範囲に神を閉じこめようとしてしまうのです。たとえば、イエスさまは「まことの神にしてまことの人」であると言います。人と神とはまったく違います。このまったく違う神と人とが一つであるとは、理屈に合いません。これを理屈に合わせようとすると、イエスさまは、人間であるか、神であるかのどちらかになります。どちらかであれば分かりやすいのですが、それは聖書が告げていることではないし、イエスさまによって示された真理ではありません。これは、サドカイ派の人々が犯しているのと同じ誤りを犯しているのです。自分の頭の中に、自分の理屈の中に神を閉じ込めてしまうのです。私たちの信仰は生ける神との交わりの中にあるのであって、自分の頭の中で造り上げた神、人格のない原理や理屈を信じることではありません。
  私たちは自分の知っていることから想像し、類推することによってしか理解できません。それが、人間の理解の限界です。しかし、復活とか終末という事柄は、その私たちの想像、類推の向こうにある、神の側の事柄です。では何も分からないのかというと、そうではありません。神の側から、私たちに分かるようにさまざまな「しるし」を与えてくださっています。神の御心を示した聖書がそうですし、神の御子を人間イエスとして与えてくださいました。そして、生ける神は生きて働いてさまざまな出来事を起こして、私たちに自らの存在を示し、人の想像を超えた神の御手の中にある復活や終末を信じることができるようにしてくださるのです。
  イエスさまは言います。《神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである》。「生きている者の神」とは、「命を与える神」であるという意味です。すべての人は、命そのものである神と関わっているのですから、人間は誰でも神の命につながって生きているのです
  サドカイ派は、モーセ五書に「人が復活する」ことについて述べていないことを復活を否定する根拠の一つにしていますが、イエスさまはこれに対して、モーセ五書のうちの出エジプト記を引用して、《死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している》と言います。この「柴の個所」というのは、モーセが燃える柴の中から「モーセよ、モーセよ」と声をかけられた、モーセの召命の場面であって、出エジプト3章4〜6の所です。このとき、神はモーセに対して御自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われました。「アブラハムの神」とは、「アブラハムと今も共にいる神」という意味です。ですから、イスラエルの父祖たちは、陰府に棄ておかれることがなく、すでに復活して「今も生きている」と告げているのです。アブラハムもイサクもヤコブも、モーセの時代から何百年も前にすでに世を去った人です。しかし、神はアブラハムもイサクもヤコブも過去の人としてではなく、生き生きした交わりの中にある者として呼んでいます。生きている者も死んだ者も、神の御手の中にあっては誰一人として失われることはないからです。
  死んだらおしまい。それは生ける神を知らない者の言葉です。イエスさまは十字架の上で死に、三日目に甦られました。このイエスさまによって現された神の力は、私たち一人一人の上に働いているのです。ですから、私たちは、このように今朝ここに集い、礼拝にあずかっているのです。パウロはこう言っています。《兄弟たちよ、眠っている人々については無知でいてもらいたくない。望みをもたない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導きだしてくださるであろう》(Tテサロニケ4章13)。
  「神は生きている者の神。すべての人は神によって生きる」。このイエスさまの言葉に対して、私たちは「神は私の神。私は神によって生きる」と応えたいと思います。この一週の歩みが、神によって生かされていることを味わい知り、心から主をほめたたえることができるものでありますように。


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