2019年4月7日  四旬節第五主日  ルカによる福音書20章9〜19
「悪い小作人のたとえ」
  説教者:高野 公雄 師

  《9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。11 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。16a 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」》

  イエスさまは、神殿境内でこのたとえを話して数日後に、十字架に掛かります。このたとえ話は、ご自身が殺されることを予告しているのです。
  このたとえ話が何をたとえているのか、当時のイスラエルの人々にとっては、きわめて明確なものでした。旧約聖書以来、羊飼いと羊のように、ぶどう園の主人とぶどう園と言えば、神とその民イスラエルを指すことになっているのです。ぶどう園で働く「農夫」はイスラエルの人々、とくにその指導者たちのことであり、ぶどう園に送られて来た主人の「僕たち」は預言者たちのことであり、「主人の愛する息子」は神の独り子であるイエスさま御自身ということになります。
  このたとえ話は、神はイスラエルの民の指導者たちに神の民を預けたけれど、いつの間にか民の指導者たちはそれが神のものであることを忘れ、自分のものにしようとしていた。何人もの預言者を送ったけれども、その預言者の言葉に聞き従わず、自分の思いのままに預言者を追い返した。そして、ついに神は愛する独り息子であるイエスさまを送ります。預言者の言葉は聞かなくても、愛する独り子の言葉なら聞くだろうと考えたからです。ところが彼らは、これは跡取りだ、殺してしまえば相続財産も自分たちのものになる。そう言って、愛する独り子さえも殺してしまいます。その結果はどうなるのでしょうか。神は、イスラエルに替えて、他の人つまり異邦人をご自分の民とすることになるのです。
  イスラエルの歴史は、確かに預言者たちの言葉に聞き従わず、それゆえ、バビロン捕囚という神の裁きを受けなければならないものでした。それは、イエスさまの時代から600年も前のことです。しかしイエスさまは、その時からあなたたちは何も変わっていない、そしてあなたたちは今度は神の子である私を殺すだろう。しかしそのようなことをすれば、600年前にユダヤが滅んだように、今度は神の選びはユダヤの民から異邦人へと替えられてしまう。そう告げているのです。

  《16b 彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。》

  イエスさまの、このたとえ話を聴いた人々は、《(断じて)そんなことがあってはなりません》と抗議します(原文は強い否定)。ユダヤ人たちには、ユダヤ人が追い出されて異邦人が神の民として迎え入れられるというようなことは考えられないことです。彼らの抗議に対して、イエスさまは聖書の言葉を引いて、そう語る根拠を示します。《それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』》。
  ここで引用されている聖書は、詩編118編22〜23ですが、これは、イスラエルがつまずき、殺し、投げ捨てたイエスさまが、復活によって新しい神の民の土台とされるということを証明する聖句として、最初期の教会が好んで引用した聖句です(使徒4章11、ローマ9章33、エフェソ2章20、第一ペトロ2章6〜8)。ここでは、農夫たちが《ぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった》息子イエスさまを、神が人間の思いを超える不思議な力をもって復活させて、新しい民の土台の石とされることを預言する聖句として引用されています。息子が殺される、このたとえ話は、イスラエルが殺したイエスさまを神が復活させて栄光の座につけるという福音を告知して終わります。   その後に、《その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう》という言葉が続きます。その石はイスラエルが捨てたのを神が堅く据えられた土台石ですから、その石に向かって敵対し襲いかかる者はだれでも自分の方が打ち砕かれてしまうのです。   そして最後に、《そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえ話を話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた》とあります。イエスさまがこのたとえ話で律法学者たちや祭司長たちの殺意を暴露されたので、対立は決定的となり、彼らはもはやイエスさまを殺す他はないとして、すぐにも逮捕して実行しようとしますが、イエスさまを支持する民衆のいるところでは騒乱になるので、それもできません。民衆のいないときに、秘かにイエスさまを捕らえて処刑する策略をめぐらし、実行にとりかかります(22章1〜2)。
  さて、イエスさまの言葉は事実その通りとなり、ユダヤ人が拒否した福音を異邦人が受け入れました。しかし、私たちはここで、祭司長や律法学者たちはイエスさまの言葉に聞き従わなかったから、イエスさまを十字架にかけて殺したから、ユダヤ人は祖国を失い、その後も苦しい歴史を生きなければならなかったのだ。当然の報いを受けたのだ。ここをそのように読んで済ませることはできません。私たちはここで、このたとえ話の中でイエスさまが告げている農夫たちの罪とは何であったのか、そのことをよく見なければなりません。農夫たちがぶどう園を自分のものにしようとしたということは、神が自分に貸し与えているものを、神のものとせずに自分のものにしようとしたということです。イエスさまが、このたとえ話の中で問題にしているのは、この罪なのです。そのことに気づくならば、このイエスさまのたとえ話は、イエスさまを殺そうとしていた当時の祭司長や律法学者たちに対しての当てつけだ、だから自分には関係ない。そんな風にはとても言えないことに気づくのです。
  神のものを自分のものにしてしまおうとする罪。これは実に根深く、私たちの中に巣くっているものです。私たちの持っているもの、それは本来、すべて神のものであって、しばらくの間、神から貸し与えられているものなのです。私たちの命、私たちの富、私たちの能力、私たちの家族、等々。私たちが自分のものと思って大切にしているものは、本来すべて神のものなのです。しかし、そのことを忘れ、自分のものだと思い、自分勝手に使えるものだと思っている。そこに私たちの罪があるのです。
  私たちの人生は、自分のためにあるのではありません。神の栄光を現すためにあるのです。私たちに与えられている富は、自分がおもしろおかしく楽しむために与えられているのではありません。神の栄光のために用いるために授かっているのです。
  ところで、イエスさまはこのたとえ話の中で、ぶどう園の主人が、農夫たちの所に次々と僕を送り、最後に愛する息子を送ったと語っています。これは長い長いイスラエルと神との関わりを示しているわけですが、ここに神の忍耐を見ることができると思います。私たちの罪を、神は忍耐をもって見ておられ、見ておられるばかりでなくて、必要な導きの言葉を預言者の口を通して与え続けました。この神の忍耐は、今も変わらず私たちの上に注がれているのです。この世界のすべての民が神をほめたたえるようになることを、神は待っておられます。この神が待っていてくださっている間に私たちがなさなければならないことは、神のもとに立ち帰る、まことの悔い改めをなすということです。そして、私たちが、自分の人生も、富も、家族も、神の栄光のために用いられることを喜び、自らを神に献げる歩みをするということです。
  イエスさまを信じるキリスト者の道を歩むためには、自分の罪深さと肉の弱さに怖じけて肉の働きに負けることなく、十字架と復活の主イエスに従い、自らの力不足は承知の上で、それでも私たちにはキリスト者の歩みを続けることが「赦されている」という信仰に立つほかはありません。《どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩》(イザヤ26章4)なのです。


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