2019年4月14日  受難主日  ルカによる福音書23章1〜49 (1〜43節は省略)
「イエス・キリストの受難」
  説教者:高野 公雄 師

  《44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。》

  十字架は処刑であり、それはまことに痛ましい、悲惨なものです。しかし、聖書が記すイエスさまの十字架の場面には、ほとんどその痛ましさを描写している記述がありません。それは、イエスさまの十字架の死が、たんなる処刑による肉体の死ではなく、神の愛の表われ、神の救いの御業の成就であったからです。聖書は、イエスさまの十字架は「人となられた神の独り子」としての死であったと告げているのです。
  聖書はイエスさまが十字架の上で息を引き取られる時に、二つのことが起きたと記しています。一つは太陽が光を失い、全地が暗くなったということ。もう一つは、神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたということです。この二つの記事は、イエスさまの十字架の死が何であったのかを示しているのです。
  イエスさまが十字架につけられたのは朝の9時(マルコ15章25)。そして、十字架の上で息を引き取られたのが午後の3時です。このとき、昼の12時から午後3時まで、太陽は光を失い、全地が暗くなったといいます。イエスさまは、逮捕するために来た軍勢に向かって、《今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている》(22章53)と言っていました。その罪の闇がまことの光である神の子を覆ったということを表す出来事です。これは、イエスさまの十字架の一つの側面を表わしています。すなわち、光に対する闇の勝利、神の独り子に対する罪の勝利を示しているのです。そしてそれは、逆説的に、あの十字架の上で死んだ方は、この世のまことの光であった、まことの神の子であったということも告げているのです。
  しかし、イエスさまの十字架にはもう一つの側面があります。それを、次の出来事、《神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた》ことが表わしています。この神殿の垂れ幕というのは、神殿の至聖所と聖所とを仕切っていた幕のことです。幕の手前の聖所では、祭司たちが毎日礼拝を献げていましたが、幕の奥の、神が御臨在を現わされる至聖所では、年に一度の「大贖罪日」に大祭司が入り、生贄の血を契約の箱の蓋に注いで、民の罪の贖いの儀式を行いました(レビ16章)。この幕は神と人との隔絶を象徴するものでしたが、この幕が真ん中から裂けたということは、神と人間との間の仕切りが取り払われたことを示しています。イエスさまの十字架によって、すべての民が、《神は我々と共におられる》(マタイ1章23)という恵みの中に生きることができるように、そのための道が開かれたということです。
  私たちは、このイエスさまの十字架によって、神殿を持たなくて良い民となったのです。それは、私たち一人一人が至聖所となったからです。使徒パウロは、《あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか》(第一コリント3章16)と書いています。まさに、誰も架けることのできなかった父なる神への架け橋を、イエスさまは自らの十字架の死をもって、架けてくださったのです。つまり、イエスさまご自身が父なる神への「道」となられたということです。
  イエスさまは十字架の上で息を引き取られるとき、《父よ、わたしの霊を御手にゆだねます》と言われました。これは詩編31編6にある祈りの言葉ですが、この言葉は夕べの祈りとして、人々が一日の業を終えて床につくときに唱えるようになっていました。この祈りは、幼子が母親に最初に教えられる祈りの一つであったと言われています。イエスさまが十字架の上で最後にこの祈りの言葉を口にしたということは、神の御心を思い、賛美し、敵を赦して生き、自ら進んで十字架を引き受けられたことを示していると思います。
  ある人が「人は生きたようにしか死ねない」と言いました。私たちが日々の歩みの中で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」との祈りをしたことがなくて、死に臨んで急にこの祈りをしようなどと言っても、できるはずもありません。一日が終わり寝るとき、私たちは明日の朝、目が覚めることを疑わないでしょう。しかし、その保障は誰に与えられていません。その意味で、一日の終わりの眠りは小さな死であるとも言えるわけです。明日目覚める保障は誰にも与えられていませんが、私たちが死んで後に目覚めること、復活することは、神によって約束されています。実はこちらの方が確かなことなのです。ですから、私たちは自らが死を迎える時にも、やがて復活し、目覚める時を信じて、父なる神にすべてを委ねることができるのです。自分が死んだ後のことも、家族のことも、神にすべてを委ねて、《御心のままに行ってください》(22章42)と祈れたらと思います。
  イエスさまはこの十字架の上で、恨み言も嘆きも、いっさい口にしていません。イエスさまは十字架の上で、自分を十字架にかけた人々のために、《父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです》と祈って、執り成しました。そして、息を引き取る時には、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈られました。ここでイエスさまは、御自身が語られた「汝の敵を愛せよ」を実行しているのだと思います。イエスさまは《敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい》(ルカ6章27)と言われました。イエスさまはこの十字架の上で、見事にそれを成し遂げられたのです。「そんなことはできない。無理だ」と言ってしまう私たちですが、イエスさまは「大丈夫、わたしに従って来なさい。わたしと共に歩むなら、そのような者へとあなたを造り変えよう」と招いてくださっているということではないでしょうか。
  このイエスさまの十字架を始めから終わりまで見ていたのが、ローマの百人隊長です。彼はその職責上、イエスさまがピラトのもとから十字架を担いで歩み出した時から十字架の上で息を引き取るまで、ずっとイエスさまのそばにいて、イエスさまのすべての言動を見ていました。そして、イエスさまが十字架の上で息を引き取られたとき、彼は、《本当に、この人は正しい人だった》と言って、神を賛美したということです。マルコ16章39では、この百人隊長は《本当に、この人は神の子だった》と言ったと記されています。彼は、今まで何人、何十人という人の十字架の処刑に立ち会ってきたことでしょう。その彼が、イエスさまの姿の中に、たんなる犯罪者とかローマの支配に対する反逆者ではなく、神から遣わされて、その使命を果たして死んでいく宗教的人格を認めたということです。
  「人は生きてきたように死ぬ」と言われますが、きっとそうなのでしょう。彼は、このように自らの十字架の死を受け入れて死ぬ人を見たことがなかったに違いありません。この十字架上のイエスさまの姿に、神の愛を体現した人、「人となられた神の子」の姿を見たのです。
  「本当に、この人は正しい人だった」。この百人隊長の言葉は、ルカが今まで書いてきたイエスさまに対しての信仰告白です。この告白へと至るように、ルカはこの福音書を記したと言っても良いでしょう。この百人隊長は異邦人でした。その異邦人の口から、イエスさまに対しての告白が生まれたのです。この百人隊長の姿に、このイエスさまの十字架を基として建てられていくキリストの教会の姿が示されているのです。この百人隊長によって示された回心した異邦人によって、キリストの教会は全世界へと広がっていくことになりました。
  イエスさまは十字架の上で息を引き取られました。それは人間の罪にイエスさまが敗北したかのように見えます。しかし、そうではありません。イエスさまはすでにこの十字架の上で勝利しています。罪に敗北した者が、どうして自分を十字架にかけた者のために祈り、死を目前にして父なる神にすべてを委ねることができるでしょうか。イエスさまはすでに十字架の上で勝利されていたのです。それが決定的に明らかにされたのが、三日目のご復活です。敗北のように見えるけれども、勝利していたのです。イエスさまは十字架につけられる前に、《あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている》(ヨハネ16章33)と言われました。イエスさまはすでに世に対して、罪に対して、勝っていたのです。私たちはこの世において苦しみに出会うとき、このことを思い起こさなければなりません。イエスさまが十字架の上ですでに勝利していたように、私たちも困難のただ中にあってすでに勝利しているのです。すべてに勝利した主イエスさまのものとされた私たちです。悪も罪も不安も苦しみも、もやは私たちを支配することはできないのです。この《人知を超える神の平和》(フィリピ4章7)の中で、父なる神にすべてを委ねつつ、一日一日を歩んでいきましょう。


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