2019年4月21日  復活祭  ルカによる福音書24章1〜12
「復活の朝」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3 中に入っても、イエスさまの遺体が見当たらなかった。4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。》

  きょう読まれた個所では、復活のイエスさまはまだ現われていません。イエスさまの遺体を納めた墓が空であったことが報告されているだけです。弟子たちはまだその復活されたイエスさまとは出会っていません。ですから、《使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった》とあるように、使徒たちはイエスさまが復活されたということをまだ信じられないでいました。これは、イエスさまの復活を信じるということは、復活されたイエスさまと出会うことがなければ起こらないということを示しています。空の墓は、イエスさまが復活されたことの「一つのしるし」には違いありませんが、これによってただちにイエスさまの復活を信じるということが起きたわけではありませんでした。死んだ人間が復活するなどということは、今日だけではなく、いつの時代でも信じるはできなかったのです。
  弟子たちは、自分たちの信仰の力で、復活という出来事を信じたのではありません。復活を信じたいから信じたのでもありません。《信じない者ではなく、信じる者になりなさい》(ヨハネ20章27)とイエスさまに促されて始めて、信じたのです。いわば、自分から信じたのではなく、信じさせられて、信じたのです。復活信仰とは、そういう信じ方をするということです。
  イエスさまのご復活は、キリストの教会が誕生することとなった出来事です。これがなければ、キリスト教は生まれませんでした。イエスさまは確かにさまざまな奇跡を行い、さまざまな教えを説かれました。しかし、もしイエスさまが復活されなかったならば、弟子たちは、イエスさまと出会い、共に旅をして過ごした日々をなつかしく思い出すことはあったとしても、それだけで終わったことでしょう。ところが、十字架のイエスさまは復活されました。そして、弟子たちの思い出の中に生きる方ではなく、どんな時にも共にいて、生きて働く神の御子であることを弟子たちに示されたのです。
  また、もしもイエスさまが復活しなかったならば、つまり復活した姿を弟子たちに現わすことがなかったならば、どうでしょうか。「イエスさまは自分たちの罪のために死なれたのだ、ご自分の命を犠牲にしてまで自分たちを愛してくれたのだ」。弟子たちがあとになって、そのように十字架の死の意味を理解できたとします。彼らはもちろんイエスさまに感謝したでしょう。しかし同時に、重い重い愛の負担を感じて、彼らは一生イエスさまに対して済まないという気持ちを抱き続けたことでしょう。ご自分の命を賭して私たちを救ったくださった方が、今本当に神から報われていることを私たちが知らされないならば、私たちは決して救われたという気持ちになれないと思います。
  しかし、事実、イエスさまは復活されて、天に上り、神の右に座しておられます。ですから、ペトロも安心して、心から自分は救われたと確信することができたのです。ペトロは最初の説教でこう語っています。《神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです》(使徒2章24)。私たちがイエスさまの復活を信じるとき、私たちもまた「死に支配されたままでいるはずはない」という信仰を与えられるのです。

  さて、復活の朝の出来事を聖書はこう報告しています。《婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った》。「週の初めの日」とは、日曜日のことです。イエスさまと旅を共にしてきた婦人たちは、まだ夜が明けきらないうちに、イエスさまの墓へと急ぎました。婦人たちは、イエスさまが金曜日の午後三時に十字架の上で死んでいく姿を見ました。アリマタヤのヨセフが自分の墓に納めるのも見ました。しかし、婦人たちは何もしてあげられませんでした。十字架の上で処刑された人を勝手に葬ることはできなかったからです。それに、すでに安息日が始まる時刻が近づいていました。ですから、婦人たちは、安息日が終わるのを待って、イエスさまの墓へと急いだのです。
  墓に着いてみると、墓の入り口をふさいでいたはずの大きな石が脇に転がっています。当時のユダヤの墓は横穴です。墓の中に入ってみると、イエスさまの遺体が見当たりません。婦人たちが途方に暮れてしまいました。すると、《輝く衣を着た二人の人》が現れました。この「輝く衣を着た人」というのは天使を指す言葉です。婦人たちは、驚き、恐れ、地に顔を伏せました。そのとき、この天使たちは驚くべきことを告げました。《なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ》と告げたのです。
  イエスさまは生きておられる。私たちもこのことを良く心に留めなければなりません。私たちがイエスさまを信じるというのは、二千年前に十字架にかかって死んだお方が、三日目に復活し、今も生きて働いておられるということを信じるということです。キリスト教は、イエスさまによって教えられた思想、生き方を受け継いでいる、それだけの存在ではありません。今も生きておられるイエスさまと共に生きている群れなのです。聖書を読むこと、イエスさまの言葉を心に刻むことは大切です。しかしそれは、今生きておられるイエスさまの声として聞いているわけです。イエスさまは復活されたのです。生ける神として、私たちと出会い、私たちを導いておられます。
  天使たちはさらに言います。《まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか》。確かにイエスさまは、自らが殺され、復活することを語られました。9章22、18章32〜33にあります。婦人たちは確かに聞いていたのです。しかし、忘れていました。そのような婦人たちに向かって、天使は「思い出しなさい」と告げます。そして、《婦人たちはイエスの言葉を思い出した》のです。
  婦人たちが目にしたのは、イエスさまの十字架の上での死でした。この自分たちがその目でしっかりと見たイエスさまの死は、疑いようがない確実なものでした。この確実な死という現実の中で、婦人たちはイエスさまの言葉を忘れてしまっていたのです。そうです。私たちも、自分たちの目の前の現実の力の前に、イエスさまの約束の言葉、イエスさまが共にいてくださること、神のまったき御支配、その御手の中にある自分を忘れてしまいます。そして、恐れ、おののき、不安の闇へと引きずり込まれていくのです。そのような私たちに、聖書は《思い出しなさい》と告げるのです。
  私たちが思い出すのは、思い出に生きるためではありません。私たちが思い出すことは、今も生きて働いておられる方の約束であり、今もその業を継続されている方の御業です。婦人たちがイエスさまの復活の約束を思い出したとき、それは目の前のイエスさまの死という現実を打ち破る、復活という出来事に目を開かれたのであり、それは同時に、婦人たちが復活の証人としての新しい歩みへと押し出されていくことになったのです。私たちがイエスさまの十字架と復活を思い出すのも同じことです。イエスさまの十字架と復活は確かに二千年前に起きたことです。しかし、このイエスさまの言葉と御業、十字架と復活を思い出すとき、私たちは復活されて今も生きて働いておられるイエスさまとの交わりの中に生かされている現実に生きることになるのです。そして、その目差しはイエスさまによって約束された将来、死を超えたまことの命の世界、神の御国へと向けられていきます。そして、私たちを取り巻く現実がどんなに困難に満ちているとしても、その困難はもはや自分たちを飲み尽くすことはできないことを知るのです。
  私たちも今、復活祭の礼拝において、イエスさまの約束と御業とを思い出し、あのイエスさまが今、私たちと共におられ、私たちの歩みのすべてを守り、導いてくださっており、それゆえ、自分たちの歩みが死によって終わることのない、神の国に向かっての歩みであることを心に刻みたいと思います。


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