2019年4月28日  復活後第一主日  ルカによる福音書24章13〜35
「エマオへの旅人」
  説教者:高野 公雄 師

  《13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14 この一切の出来事について話し合っていた。15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
  28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。》


  婦人たちが墓が空になっているのを見つけた日、ふたりの弟子がエルサレムからエマオという村へ歩きながら話し合っていました。そのうちの一人はクレオパという人でした。もうひとりはその奥さんだとも言われますが、これを題材とした絵では、ふたりの男の弟子として描かれています。それはともかく、ふたりは歩きながら、イエスさまが葬られた墓にその遺体がなかったということで、いま町では大騒ぎになっていることを話していました。
  そこに復活のイエスさまが近づいて来ました。そのとき、《しかし、二人の目は遮られていて、イエスさまだとは分からなかった》ということです。なぜ神は彼らの目を遮ったのでしょうか。それは、つまり、復活ということは、自分の力で信じることができることではなく、神から信じさせてもらって始めて、私たちはイエスさまの復活を受け入れることができるようになるということを示しているのでしょう。
  ふたりは、イエスさまから《歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか》と尋ねられると、《二人は暗い顔をして立ち止まった》というのです。そしてイエスさまに《エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか》と答えます。イエスさまが《どんなことですか》と尋ねると、ふたりはこう語り出します。
  《ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスさまは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした》。それでいま都の中は大騒ぎになっていると話すのでした。
  このとき、イエスさまはなぜご自分が復活したということを、彼らにただちに分からせようしなかったのでしょうか。イエスさまは彼らが宿に入ろうとすると、イエスさまは彼らと離れて先に進もうとしているのですから、イエスさまは最後までご自分のことを彼ら明らかにしようとはしなかったということです。これは、私たちがイエスさまの復活という事実を信じるようになるために、大事なことを示そうとしていると思います。
  イエスさまは、彼らにただ単純に自分は復活したのだと明らかにしようとはしませんでした。そうする代わりに、《ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか》と言って、モーセから始めて聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてあることを説き明かしたのです。つまりイエスさまはご自分がよみがえったことを、単なる一大奇跡のように弟子たちに示そうとはしなかったということです。   それは聖書に示されているように、長い長い歴史を通して、神が深い配慮とご計画をもって、この私たち人間を救うために御子を派遣し、そして十字架につけ、そういう神の救いのご計画の最後に御子の復活という出来事があったのだということを示そうとしたということです。
  イエスさまの復活を信じるということは、それだけを抜き出して、「イエスさまの復活を信じるか」と問うても何の意味もなさいないということです。イエスさまの復活を本当に私たち人間の罪の救いのための復活として信じるためには、旧約聖書からずっとメシアについて預言されていることを通して学び、そうしたうえで、神の子の十字架の死とその復活の意味を理解して信じるのでなければ、復活という奇跡を信じたことにはならないということです。
  イエスさまはあのふたりの弟子に、ご自分が復活のイエスご自身だとは明らかにしようとはしないで、聖書の中でご自身について記している所を心をこめて説き明かされました。そのようにして、もう彼らから離れてもきっとあとで自分が復活のイエスだったと思いつくに違いにないと確信して、イエスさまはいわば安心して彼らを宿に残し、自分は彼らを離れて先に進もうとしたのではないかと思います。
  しかし彼らは自分たちの家に泊まるようにイエスさまを引き止めました。そして一緒に食事をしました。イエスさまがパンを裂いて彼らに与えたそのときに、彼らの目が開いて、それが復活のイエスさまだと分かったのです。つまり、神はそのようにして彼らがイエスさまの復活を理解し、信じるまで、あえて彼らに復活のイエスさまを分からせなかったということです。
  人は、イエスさまの十字架は受け入れることはできても、復活は信じられないとよく言います。それは復活ということだけを切り離して信じようするからです。復活を信じるということは、聖書全体から信じようとしない限り信じられないということです。
  ふたりはそれがイエスさまだと分かった、イエスさまの復活を信じたとたん、《その姿は見えなくなった》ということです。その代わりに彼らはこう語り合ったのです。《道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか》。イエスさまからじかに説き明かされている時には、自分たちの心が燃えていたとは気が付かなかつたようなのです。イエスさまは、人々にただ熱狂的に分からせようとするのではなく、一時の感情の高揚ではなく、人々が自分たちの心の中で納得するまでじっと待ってくださるということではないかと思います。
  このイエスさまが復活された日の午後、ふたりの弟子とイエスさまとの間に起きた出来事。イエスが聖書を説き明かし、このふたりの弟子と一緒に食事をする。そして、ふたりの目が開かれ、復活のイエスさまが共におられることが分かった。聖書を説き明かされたときに心が燃えた。実に、これがキリストの教会の礼拝を形成する原体験となったのです。そして、私たちは主に日の礼拝に集うたびことごとに、説教と聖餐によって、イエスさまによる救いの恵みにあずかり、イエスさまが今も私たちと共に歩んでくださっていることを知らされ続けているのです。この復活のイエスさまとの交わりの中に、どこまでも留まり続けることができるよう、心から願い祈りを献げましょう。


inserted by FC2 system