2019年5月5日  復活後第二主日  ルカによる福音書24章36〜43
「弟子たちに現われる」
  説教者:高野 公雄 師

  《36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。》

  エマオに向かって歩いていた二人の弟子に復活したイエスさまが現われました。彼らはその出来事を知らせるために、エルサレムにいる弟子たちの所に戻って行きました。すると、イエスさまが復活してシモン・ペトロに現われたということを話していました。互いに復活のイエスさまに出会ったことを話し合ったのです。これは、イエスさまが復活された日の夜のことでした。イエスさまが復活された朝の出来事として、女性の弟子たちがイエスさまの墓に行き、空の墓を見て、天使によってイエスさまが復活されたことを知らされました。そして昼、エマオへの途上で二人の弟子に復活したイエスさまが現われました。夜、弟子たちが集まっていると復活のイエスさまがその御姿を現わされました。復活したイエスさまは誰か一人に一度だけ現れたということではなく、弟子たちが集まっている所に何度も現われたのです。このように、イエスさまの復活が本当に確かに起こったことだと告げています。
  このときの、イエスさまの現われ方は不思議でした。弟子たちが、復活のイエスさまに出会った弟子たちの話を聞き、それについて話をしています。するといきなり復活のイエスさまが現われ、弟子たちの真ん中に立ち、《あなたがたに平和があるように》と言われたというのです。いったいどこから、いつこの部屋に入って来たのか分かりません。弟子たちはびっくりして恐れ、これはイエスさまの亡霊(亡くなった人の霊)だと思いました。この復活のイエスさまの現われ方は、まさにイエスさまが《二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである》(マタイ18章20)と言われたことの成就なのですが、弟子たちはそんなイエスさまの言葉を思い出しもしません。このとき弟子たちは復活のイエスさまと出会ったという報告を聞いて、それについて話し合っていたのです。ところが、実際に復活のイエスさまが現われると、亡霊だと思って恐れおののいてしまいます。これは、私たちがいかに復活というものを信じられないか、そのことをはっきり示しているのではないでしょうか。
  復活したイエスさまを目の前にしてもまだ信じられない弟子たちに向かって、イエスさまは、《なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある》と言います。そして《こう言って、イエスは手と足をお見せになった》のです。イエスさまはここで単に、自分には手も足もあるから幽霊ではないと言っているだけでなく、「わたしは十字架にかかって死んだ、あのイエスなのだ」と言っているのでしょう。その手足には傷跡がついていたのだと思われます。《まさしくわたしだ》と言われているのは、そういうことです。
  多分、魚を食べたのもそういうことでしょう。まだ信じられないでいる弟子たちに向かってイエスさまは、《ここに何か食べ物があるか》と言われ、焼いた魚を弟子たちの前で食べたということです。イエスさまと共に旅をしていた弟子たちは、この魚を食べるイエスさまの姿によって、あの一緒に旅をしたイエスさまと、目の前にいる復活のイエスさまが結びついたのだと思います。
  復活のイエスさまは、十字架の上で死ぬ前のイエスさまとつながっているのです。別人になったのではありません。あのイエスさまが復活されたのです。ですから、私たちも「この私」が復活するのです。
  こうしてイエスさまは自分は幽霊などではないということを、これでもかと示されました。どうして幽霊ではダメなのでしょうか。それは、幽霊は死に勝利していないからです。幽霊は死の支配の中にあるものですが、復活は死を打ち破った命なのです。
  イエスさまは、ご自分のからだは幽霊などではなく、からだをもった存在だということを、魚を食べることによって、彼らに手や足を触らせることによって示そうとしました。しかし、復活のイエスさまの「からだ」というのは、不思議なからだで、弟子たちが戸を閉ざしている部屋の中にすっとまるで幽霊のように入って来ました。また、エマオの途上の話では、イエスさまがパンを祝福し、それを裂いている様子を、ふたりの弟子が見て、「イエスさまだ」と分かったとたん、その姿が見えなくなりました。ですから、やはり霊の「からだ」としか思えない「からだ」だったとも記されているのです。実際に、焼いた魚の一切れを食べるという肉体をもった「からだ」なのでしょうが、しかしそれはやはりただの「からだ」ではない、霊の「からだ」、自由に動き回れる「からだ」として描かれているのです。
  弟子たちは復活のイエスさまの手と足を見て、それがあの生前のイエスさまと同じだ、ということを知ったときに、《喜びのあまりまだ信じられず》にいたと記されています。彼らはイエスさまが十字架で殺されるときには、みなそのイエスさまを裏切って逃げて行っているのです。そのイエスさまが復活して自分たちの目の前に立っているとき、「喜びのあまり」と、手放しで喜べる心境になったことは不思議です。しかし、このとき、弟子たちは自分たちの犯した罪、あやまち、弱さを見つめて自分を責めるという自責の念よりも、もう一度イエスさまにお会いできたという喜びのほうが圧倒的に大きかったということでしょう。それほど生前のイエスさまの存在の大きさ、その人格のあたたかさ、その愛の大きさがあったというわけです。
  私たちはともすれば、あまりにも真面目すぎて、いつも自分を責めてばかりいます。しかし私たちもこの生ける神の前に、そしてこの復活のイエスさまの前に立たつときには、「喜びのあまり」という喜びに圧倒されることでしょう。
  ただし、《彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので》とあるように、彼らはいま自分たちが経験していることが何を意味するのか、まだ理解できないでいました。復活というのはまことに信じ難いことですが、イエスさまはその信じない者も信じる者にしてくださるのです。信仰とは与えられるものであるというのはそういうことです。信仰というものは私たちの内面から自然に湧き上がってくるものではありません。私たちの内にあるのは、信じられないという頑なさなのです。その信じられない私たちを何とか信じる者にしようと、イエスさまは心を砕き、働きかけてくださるのです。私たちは、このイエスさまの働きかけによって信じる者とされた者なのです。
  復活ということが分からない弟子たちの心の目を開いて、聖書の証しが分かるように、イエスさまがしてくださるのです。イエスさまは弟子たちに御自分の手と足をお見せになり、魚を食べ、そして45節に《そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、・・・》とあるとおり、聖書の説き明かしをされました。食事と説き明かしは、エマオのときと同じです。
  イエスさまの弟子たちは、復活のイエスさまに出会い、信じられないほどの大きな喜びを知りました。この肉体の死によって終わらない命へと招かれていることを知りました。イエスさまの復活は私たちの生き方が根本から変えられることになる出来事です。イエスさまの弟子たちは、この復活のイエスさまとの出会いによって変えられました。神の大きな救いの御業の中で生かされ、それに仕える者として召されたからです。自分の幸い、自分の願いというもの以上のもの、自分の人生に意味を与える大きな使命と言うべきものを与えられたからです。このイエスさまの召命に応えて生きるという新しい人間がここに誕生したのです。しかし、それは自分一人の中にとめておくような喜びではありませんでした。すべての人々をそこに招き、共にあずかる喜びでした。彼らはイエスさまの証人として遣わされるために、復活のイエスさまとの出会いを与えられたのです。
  私たちは、聖霊の導きによって、この目で見ることなしに、復活して今も生きておられるイエスさまを信じ、イエスさまと共に歩んでいきます。この朝、私たちはイエスさまの名によって、ここに共に集っています。イエスさまは、この私たちのただ中におられて、《あなたがたに平和があるように》と告げるのです。私たちはこのイエスさまの祝福に包まれているのです。礼拝においてこのみ言葉を聞いているからこそ、私たちは日々の生活の中で、イエスさまの語りかけを聞き、イエスさまの十字架の死と復活において実現している神の平和、祝福、救いを信じ、待ち望みつつ生きることができるのです。


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