2019年6月2日  昇天主日  ルカによる福音書24章44〜53節
「イエスの昇天」
  説教者:高野 公雄 師

  《44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
  50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。》


  ルカ福音書の最後の場面です。イエスさまは弟子たちの前に復活の姿を現わして、ご自分が紛れもなく、十字架について死んだあのイエスであることを示しました。そして、弟子たちに聖書について教えました。
  イエスさまは、《モーセの律法と預言者の書と詩編》と言っていますが、これは旧約聖書を三部に分けて呼ぶ言い方です。つまり、ここでイエスさまが言っていることは、旧約聖書に書かれていることは預言であって、それは必ず成就する、ということです。
  そしてイエスさまは、弟子たちの《心の目を開いて、言われた》、とあります。これは、そのままでは聖書が理解できないということです。それなら勉強すれば分かるのかというと、勉強しても分かりません。勉強すれば分かるのなら勉強すれば良いのですが、そういう問題ではないということです。
  では、どうすれば聖書が理解できるのでしょうか。イエスさまが弟子たちの心の目を開いたのです。ここで「心の目」と日本語に訳されていますが、原文は「心」という言葉だけです。イエスさまは弟子たちの「心を開いた」ということです。「心を開く」は、反対の「心を閉ざす」を考えると分かりやすいと思います。神さま、イエスさまに対して心を閉ざしていたのでは、どんなに勉強しても理解できないということです。逆に言えば、心が開かれたのなら、子供でも理解できるものです。
  聖書を理解し、イエスさまを理解できる唯一の条件は、心が開かれているということです。では、どうすれば心が開かれるのか。それはイエスさまが私たちの心を開いてくださることによります。ではどうすれば、イエスさまが心を開いてくださるのか。それについて、イエスさまはこう言っています。《求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば開かれる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる》(11章9〜10)。「求める者はだれでも」です。
  さて、イエスさまは彼らの心を開いて、46〜48節にあるように、メシアの受難と復活と、罪の赦しの悔い改めと、世界に福音が宣べ伝えられることが聖書に書かれていると言われました。実は、そこに書かれている文言通りのことが、旧約聖書のどこかに書かれているというのではありません。ここでイエスさまは、旧約聖書のあの個所、この個所と細かなところを拾い上げて言っているのではなくて、聖書全体としてそのことが預言されていると言っているのです。
  言い換えれば、イエスさまは聖書の中の登場人物の一人というのではなく、聖書全体がイエス・キリストという主題で書かれているということです。そしてなぜ、イエス・キリストという主題で書かれているかと言えば、イエスさまの中に私たちの一切の希望があるからということになります。
  ここに、イエスさまが天に昇られる前に弟子たちに対して聖書のことを教えられた理由があります。つまり、イエスさまが天に昇られて弟子たちの前から姿が見えなくなっても、必要なことはすべて聖書に書かれているので、その聖書を通してイエスさまのことが理解できるように備えたというわけです。
  続けて、イエスさまは弟子たちに、《あなたがたはこれらのことの証人となる》と言いました。「あなたがた」というのは誰のことでしょうか。それは、そのときイエスさまの前にいた弟子たちです。この弟子たちが、聖書の預言のとおり、世界に向かってキリストの救いを宣べ伝えるキリストの証人となるのだと言うのです。
  それを聞いて、「まさか」と思ったのではないでしょうか。この弟子たちは、イエスさまが十字架につけられるために捕らえられるという土壇場になって、イエスさまを見捨てて裏切ってしまうという、まことに弱くて情けない弟子たちです。とても役に立ちそうもない人たちです。それなのにイエスさまは「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言います。いったいなぜでしょうか。
  彼らが他の人と違う点は何でしょうか。それは、彼ら自身に理由があるのではありません。彼らは、復活のイエスさまに出会いました。そこがまず異なっています。そして次に、その復活のイエスさまによってすべての罪が赦され、祝福されたということです。すなわち、この弱く情けない弟子たちは、ただそういうイエスさまを知ったということだけが違っています。そしてそのことだけが、イエスさまが彼らを証人とする理由です。彼らには「こんな私をも、イエスさまは受け入れてくださった」という感謝があります。
  それに、イエスさまは、直ちに彼らを世界宣教に派遣するとは言っていません。《わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい》と言われました。
  「父が約束されたもの」とは聖霊のことです。そしてそれが「高い所からの力」です。聖霊の力に覆われるまで、とどまっていろ、とおっしゃる。イエスさまは天に昇られるけれども、代わりに聖霊が来られる。それまで待っていなさいと、おっしゃいました。
  そして、イエスさまは《手を上げて祝福された。そして・・・天に上げられた》と書かれています。「手」は複数形です。両手を上げて祝福するのはユダヤ教の大祭司の動作です。イエスさまは最後に弟子たちの元を去るときに、この弟子たちを祝福されたのです。祝福という言葉は日常の日本語としてほとんど使われませんから、ピンとこないかもしれません。日本の神々は祟る神なので、呪いや祟りなら実感を持てるでしょうが。祝福とは、要するに、神の恵み・賜物・守り・支え・導き・等々を言います。
  そこで何が起きたでしょうか。《彼らはイエスを伏し拝んだ》とあります。この動詞はユダヤ教徒が神を礼拝するときに用いる動詞です。弟子たちは、復活したイエスさまを神として拝んでいることを示しています。
  ルカ福音書では、復活してからすぐに天に行かれたように読めますが、同じルカが書いたこの続きの書物である使徒言行録を見ますと、《四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された》(使徒1章3)とあります。
  なお、復活されたイエスさまはオリーブ山から昇天されたと広く理解されていますが、聖書のどこにも、復活されたイエスさまがオリーブ山から昇天したという記事はありません。ただ、昇天の出来事を語った部分の直後に、《使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た》(使徒1章12)とあることから、そう理解されているだけです。
  それで、イエスさまはどうなるのか。これも、使徒言行録を見ると、イエスさまが天に昇られた後、天使が弟子たちに、イエスさまは《またお出でになる》(使徒1章11)と告げました。さらにイエスさまが言ったように、父なる神が約束された聖霊が代わりに来られるのです。そして聖霊を通して、実はイエスさまが共におられる。復活されたイエスさまは生きておられ、天に帰られましたが聖霊を通して共に歩まれるということになります。
  それで弟子たちは、大きな喜びに満たされ、《絶えず・・・神をほめたたえていた》のです。この自分たちのように罪を犯し、失敗をし、情けないほどに弱い者を、イエスさまは受け入れてくださり、祝福してくださいました。そして今度は、聖霊によって共に歩んでくださるのです。
  ドイツの詩人シラーはこの天におられる神への信仰と喜びを高らかに歌い、ベートーベンがそれに曲をつけたのが第九交響曲の有名な「歓喜の歌」です。この曲は旧讃美歌158番に昇天の讃美歌「あめにはみつかい」として用いられ、愛唱されていました。昇天は、イエスさまが今ここに身近におられることを感じることができなくとも、イエスさまは私のもとを完全に去ってしまったのではなくて、本当はいつも共におられるのだということを教えます。私たちは希望をもってイエスさまを待つことができるのです。
  従って、イエスさまの物語は終わったのではありません。聖霊と共に、新しい歩みが始まったのです。今日ここに教会が建っているのも、その聖霊の働きの表われです。それゆえ、私たちも、イエスさまと共に聖霊と共に、私たち自身の新しい物語を始めることができます。


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