2018年12月24日  降誕祭(前夜)  ルカによる福音書2章1〜20
「暗闇を照らす光」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。》

  イエスさまの誕生は、夜の出来事でした。この夜の闇は、この地上の世界を覆っている悲しみ・嘆き・争い・飢え・不安・恐れ・絶望といったものを象徴しています。罪に満ちたこの世界の現実。それが闇です。誰にも言えないような苦しみや悩み、恥、自分でも認めたくもないような汚点、気を紛らわして忘れてしまいたいような痛み。そのような、誰でもが心の片隅に抱えている深い暗闇の中に、神の愛、私たちを救わずにはおれない神の御心が現れました。闇の中に「まことの光」であるイエスさまが来られました。闇の中に光が灯されました。それがクリスマスです。
  私たちの救い主イエスさまが生まれたとき、イスラエルは独立国ではなくて、ローマ帝国によって支配されていました。《そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た》、とあります。人口調査をするのは、民の中から成人の男性を数えて、軍隊に徴兵するため、そして税を改めて徴収するためです。
  しかも皇帝アウグストによってそれが命じられたということは、イスラエルの民が敵の手によって数えられることでもありました。イスラエルの民衆にとっていかにこのことが屈辱的なことであったかということが分かります。また、この人口調査は、自分の生まれ故郷に帰って登録しなくてはならないので、これは民衆に過重な負担を強いることになりました。
  マリアの夫ヨセフは《ダビデの家系であったために、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというユダヤの町に上っていった》のです。それはすでに《身重になっていた妻マリアと共に登録するため》でした。婚約中の女性も法律上は妻として扱われるので、ヨセフと共に住民登録が必要だったのです。ところが彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリアは月が満ちました。あわてて産む場所を捜しましたが、宿屋の客間は人口調査の登録のために旅人でいっぱいだったために、宿屋の客間をとることができないで、馬小屋の飼い葉桶の中で初子を産んだのです。

  《8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。》

  そして、この救い主の誕生のことが、羊飼たちのところに知らされました。夜、羊飼いたちが野宿をしていたときに、主の天使が現れ、《主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた》。すると天使はこう言います。《恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである》。
  救い主が飼い葉桶の中で生まれるということは、単なる偶然のことでもなければ、やむを得ずそうなったというのでもありません。これこそ神が初めから計画し、救い主の誕生のしるしとして選んでいたことなのです。「飼い葉桶」は何のしるしなのでしょうか。それは人間の暗さ、あるいは人間の罪を表しているのだと思います。イエスさまは人間の暗闇の中に生まれた(ヨハネ1章4〜5)と記されていますし、イエスさまは罪人のひとりとしてこの世に来て、そして罪人のひとりに数えられるために犯罪人として十字架で死なれた(イザヤ53章12、ルカ22章37)とも書かれているからです。
  「救い主」であり「主」であり「メシア」であるイエスさまは、私たちの罪のただ中に生まれたのです。その罪がヨセフとマリアを宿屋の客間から飼い葉桶へと追いやったのです。そして、そのような自分の罪を知り、その自分の罪に泣き、なんとかこの自分の罪から救われたいと思っている人が抱いている罪。イエスさまはなによりもそういう罪人の中に誕生したということです。
  羊飼いたちに天使が飼い葉桶の中の救い主の誕生を告げると、天の軍勢が現れて、天使と一緒になって神を賛美しました。《いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、御心に適う人々に平和があるように》。ここでは「御心に適う人々に平和があるように」と言っています。羊飼いには、《すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝える》と言っています。この救いは、確かにすべての民に、すべての人々に与えられる救いです。しかしこの救いが救いとして本当に分かるためには、神のみ心に適う者にならなければなりません。
  誰でも心に闇を持っています。私たちは苦しみや悲しみを通して自分の貧しさを知ります。その自己省察、その罪の自覚、そして神に祈ろうとする思い、それが神のみ心に適う人々ではないかと思います。クリスマスの喜びは、そういう神のみ心に適う人々に平和が与えられる喜びなのです。
  天使が現れたのは、野宿していた羊飼いたちに対してでした。羊飼いという身分は、徴税人や遊女や盗賊たちと同じで、きわめて低いものでした。その羊飼いに天使が現れて、飼い葉桶で救い主が誕生したことを告げたのです。それは、どんなに小さな、どんなに弱い、どんなに貧しい人とも、神の御子であるイエスさまは共にいることを示すため、また、そのことによって私たち一人ひとりに対する神の愛を示すためでした。
  この誕生の場面では、もうマリアには天使は現れません。マリアは羊飼いからその事情を聞くのです。自分たちに天使が現れて、《あなたがたのために救い主がお生まれになった》ことを羊飼いから聞かされました。それを聞いてマリアはその羊飼いが語ることを《すべて心に留めて、思い巡らしていた》のです。マリアは直接、天使からではなく、この羊飼いを通して、飼い葉桶に横たわっている幼子が救い主であることを改めて知らされたわけです。
  私たちにも天使は現れません。天使が現れてくれたら、迷うことなく救い主を受け入れるのにと思っても、天使は現れてはくれません。私たちにイエスさまこそ救い主だと知らせてくれるのは、教会の礼拝を通してなのです。このかたこそ救い主だと信じた人を通してなのです。それは、あの羊飼いと同じようにあまり見栄えのしない、教会の群れを通してなのです。
  クリスマスの日には、天使はマリアに現れたのではなく、貧しい羊飼いに現れました。そしてマリアとヨセフはこの羊飼いを通して、改めてこの飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子が救い主であることを告げられました。それを聞くマリアもよほど謙遜にならないと、この羊飼いの語ることが真実であるとは信じられなかったと思います。ですから、クリスマスの本当の喜び、その救いの意味を知るためには、私たちが本当に謙遜にならないと、そういう意味で神のみ心に適う者にならないとならないでしょう。
  イエスさまの誕生は、《すべての民に与えられる大きな喜び》となる出来事です。それは、イエスさまが私たちのために、私たちの一切の罪の裁きを受けてくださったからです。それによって私たちは神の子とされることになったからです。神が愛する独り子であるイエスさまを与えるほどに私たちを愛している(ヨハネ3章16)ことが明らかになったからです。このことをしっかり受け止めて、共々に神をほめたたえたいと思います。


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