2019年1月13日  主の洗礼日  ルカによる福音書3章15〜22
「イエス 洗礼を受ける」
  説教者:高野 公雄 師

  《15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。19 ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、20 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。》

  洗礼者ヨハネが登場したとき、多くの人々が「もしかしたら、この人が待ち望んでいた救い主、メシアなのではないか」と思っていました。当時、ヨハネはとても大きな影響を与えた預言者でした。そして、当時の人々はローマ帝国に支配される日々を送っていて、自分たちを助け救ってくれるメシアが来ることを切に待ち望んでいたのです。しかし、ヨハネは、自分がメシアであることを否定し、人々にこう言います。《わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない》。
  ヨハネの使命は、次に来られるイエスさまを指し示すこと、まことの王であるイエスさまのために道を備えることでした。履物のひもを解くのは、汚れた足を洗う奴隷の仕事でした。自分はその方の前に出るならば奴隷以下だと言います。ヨハネは自分を卑下したのではありません。まことの救い主の力、深い憐れみに触れて、おのずと自分の小ささを知らされたのです。
  ヨハネは、悔い改めを説きました。たとえ領主であっても間違ったことをしている相手には厳しい言葉を語りました。この領主ヘロデというのは、イエスさまが生まれた時に2歳以下の男の子を皆殺しにしたヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスのことです。彼は、同じヘロデ大王の子であり、自分とは異母兄弟(マルコ6章17はヘロデ・フィリポと記し、ほぼ同時代の著述家ヨセフスはヘロデ・ポエトスと記す)の妻であったヘロディアと結婚しました。しかも、このヘロディアもまたヘロデ大王の孫でした。つまり、領主ヘロデは、異母兄弟の妻であり、自分の姪である女性と結婚したわけです。これは、神の前に正しいことではないとヨハネは指摘したのです。その結果、ヨハネは囚われの身となりました。これでヘロデの悪事を公に責める者はなくなったかもしれませんが、罪というものは人の口を封じたからといって、なくなるものではありません。罪は、神の御前において悔い改め、赦していただかなければ、決して清められません。罪はその人の中で成長し、やがて、その人自身をも飲み込んで、破滅させてしまうのです。マタイ14章によると、のちにヘロデは娘の踊りへの褒美のためにヨハネを殺してしまいます。これは、すでにヘロデが自らの罪に飲み込まれてしまっていたことを示しています。

  《21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。》

  バプテスマのヨハネが授けていた洗礼は、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼です。イエスさまはまことの神の子であり、罪なきまことの人でした。それなのに、どうして洗礼を受けたのでしょうか。その答えは、イエスさまの全生涯の歩みから明らかになります。イエスさまはまことの神でしたが、貧しい大工の子としてマリアから生まれました。その歩みはいつも罪人と共にあり、ついには十字架の上で死にます。そして、今も、私たちの一切の罪を担って私たちと共に歩んでくださっているのです。
  イエスさまの洗礼の出来事は、ここから理解することができます。イエスさまはヨハネから洗礼を受けるために集まってきた民衆と共に、その中の一人として洗礼を受けられました。そして、イエスさまが、罪の赦しと悔い改めを必要とする、すべての人々と共に洗礼を受けることを、父なる神も良しとされたのです。
  イエスさまは、これから神の子としての公の歩みを始めようとしています。その初めの一歩が、この洗礼を受けるということでした。神の子として、教えを宣べ伝え始めます。洗礼を受けることによって、自分もまた罪人の一人として歩むことになります。神の《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という言葉は、罪人の一人と数えられる者として歩むことが私(神)の子に相応しいことだ、と言っているのです。
  このとき天から響いた言葉は、昔から旧約聖書の二つの個所の言葉であると言われています。一つは詩編2編7の、《主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。』》という言葉です。これは、王の即位の時に歌われたと考えられる詩編で、この言葉によって始まるイエスさまの公の生涯は、神の御前にまことの王として即位した者の歩みであると告げているのだと見るのです。
  もう一つは、先ほど日課の朗読で聞いたイザヤ書42章の1節の、《見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を》という言葉です。イエスさまにおいて、この預言は成就したのだと見るのです。つまり、「わたしの僕、わたしが支える者」というのが《わたしの愛する子》、「喜び迎える者」というのが《わたしの心に適う者》ということになります。そして、これに続く2節の、《彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す》というのは、イエスさまが洗礼を受けた時に聖霊が鳩のように降ったこと、あるいは最後の審判の時にイエスさまが裁き主として臨まれることを示しています。さらに、3節の《傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく》という個所は、まさに、罪の中であえぎ、痛み、苦しんでいる者と共に歩まれるイエスさまの姿を指し示しています。6節の《民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた》は、イエスさまが新しい契約を立てる者として十字架にかかること、そして、人々の救いの光、希望の光となることを示しています。そして、7節の《見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために》には、イエスさまの救いにあずかる者の姿が示されているのです。
  さて、ヨハネは群衆に向かって、イエスさまが《聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる》お方である、と告げました。イエスさまが授ける洗礼は、私たちの罪を焼き滅ぼし、聖霊が降ることによって新しい人間を生まれさせることのできる洗礼です。洗礼は、単にクリスチャンになる通過儀礼というようなものでも、単にその人の考え方や生き方が変わるというようなものでもありません。もちろん、そういうことも起きるのですが、それ以上に、私たちの命がかかっている出来事です。洗礼は、聖霊と火によって、つまり神の力によって私たちの命が根本から変わってしまう出来事なのです。
  それでは、このイエスさまが洗礼を受けたことと私たちが洗礼を受けたこととは、どのような関係があるのでしょうか。要点を三つにしぼってお話ししたいと思います。第一に、洗礼を受けるということは、イエスさまが私たちのために低きに降ってきてくださった、この恵みを感謝して受け取るということです。第二に、この洗礼によって私たちはイエスさまと一つに結び合わされるということです。洗礼を受けるということは、罪人である私はイエスさまと共に十字架につけられて死に、イエスさまの復活の命に生きる者とされるということです。ガラテヤ3章26にこうあります。《あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです》。第三に、洗礼を受けることによって、私たちは神の子とされ、神の相続人となるということです。父なる神の持つ良きものすべてを、キリストと共に受け取る者とされるのです。それは、神の国であり、永遠の命であり、栄光であり、祝福であり、平安であり、喜びであり、真理であり、善であります。サタンの支配から、神の支配のもとに生きる者とされるのです。
  洗礼という、目に見た所では、単に頭に水をかけるだけの儀式にすぎないようですけれど、そんなものではないのです。私たちが父・子・聖霊の御名によって洗礼を受けるとき、私たちには聖霊が注がれます。私たちは、洗礼を受けて聖霊を注がれることによって、神の子とされます。このとき、イエスさまに告げられた父なる神の言葉を、私たちに向けられた言葉として受け取ることが許されるのです。《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という言葉です。神は私たちを愛する独り子と同じ者として見てくださるのです。これが福音です。


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