2019年1月20日  顕現節第三主日  ルカによる福音書4章16〜32
「故郷ナザレで受け入れならない」
  説教者:高野 公雄 師

  《16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」 20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。   31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。》

  イエスさまは荒れ野で悪魔の試みを受けたとき、「ただ主なる神を信頼する」という仕方でその試みをことごとく退けたあと、御霊の力に満ちあふれてガリラヤに帰りました。イエスさまは諸会堂で教え、人々から尊敬を受けました。そして、自分の育った故郷ナザレに来て、安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとすると、預言者イザヤの書が手渡されました。イエスさまは、イザヤ書61章1〜2節の個所を開いて読みました。《主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである》。そして聖書を係りの者に返して、席に着きます。会堂にいる人々はこれからイエスさまがどのような説教をするのかと待ちかまえています。するとイエスさまは、《この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した》と宣言し、説き始めたのです。すると人々はみなイエスさまをほめ、また《その口から出てくる恵み深い言葉に》感嘆したということです。   《主の恵みの年》というのは、「ヨベルの年」(レビ25章)とも言われます。ヨベルとは牛の角笛のことで、そのヨベルを吹き鳴らして、これから「恵みの年が始まる」と告知することから、「ヨベルの年」と言われるのです。ヨベルは解放の年の始まりを告げるのです。イスラエルの社会では初めは土地は、神からの授かりものなので、売買の対象にはならなりませんでした。しかし、それが崩れてきて、社会のなかで土地の所有者とそうでない者、裕福な人と貧しい人との階層ができてきました。その格差をなくすために五十年に一度ヨベルの年というのを設けて、この年には自分が買った土地は無償で元の土地の所有者に返す、すべての奴隷を解放す、すべての借金は全額帳消しにする、そう定められたのです。しかし、実際には、そういうことがイスラエルの社会では行われなかったようです。これは理想に終わりました。   そして、その理念がさらに精神化されたのが、イエスさまが引用したイザヤ書61章の1節2節の言葉なのです。イザヤは、やがてイスラエルにもそういう「恵みの年」を告げる使者が現れると預言しているのです。じつはイエスさまはイザヤ書をそのまま引用してはいません。もともとの2節は《主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して嘆いている人を慰め》と、その年は恵みの年であると共に神の報復の年でもあると告げているのです。しかし、イエスさまは神の報復については省いてしまって、ひたすら神の恵みを説き明かしました。   ルカ福音書によれば、イエスさまが宣教を開始したときの言葉が、この「主の恵みの年」が、わたしが来たことによって「きょう実現した」ということでした。このヨベルの年が単に理想で終わるのではなく、わたしが来たことによっていよいよ実現するのだと言うのです。   人々は大いに喜びました。《その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った、「この人はヨセフの子ではないか」》。こんな大胆なことを言うイエスさまは、われわれがよく知っているヨセフの子だ、大工の子だ、と言って感嘆したということです。しかし、その一方で、「いや、これはわれわれがよく知っているヨセフの子ではないか、われわれと一緒に育った大工の子ではないか」と言って、イエスさまの言葉を信用しない人々もいました。   それで、イエスさまはご自分の言葉をそのまま素直に受け取ろうとしない人々の心を読みとって、こう言います。《きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない》。「医者よ、自分自身を治せ」ということわざは、他人の病気を治す医者が自分の健康については無頓着だ、ということわざですが、ここでは、よその町ではなく、まず自分に故郷の病人を治せという意味です。しかし、イエスさまはその要求を拒否します。   郷里の人々の言葉は、イエスさまが十字架にかけられた時に、みんなが一緒になって、《他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから》(マタイ27章42〜43)と言って侮辱したことに通じます。つまり、「あなたがカファルナウムというよその町で、いろいろと病気をいやしたり、悪霊を追い出したりしているが、あなたの生まれた町、このナザレでもしてみよ、そうしたら信じよう」といってイエスさまを信用しなかったということです。ついには、イエスさまは激高した人々に崖から突き落とされそうになったのです。   これが、十字架の上のイエスさまに対して「他人を救ったが、自分自身を救えない、そんな者は神の子ではない」とののしった人々の考えている神の救いです。自分中心の救いしか考えないということです。しかしイエスさまは、そういう自分だけが幸福であれば良いというような救いをもたらすために、神の子でありながら人となったわけではありません。そういう自分中心のことしか考えないところからこの世には貧しい人が生まれ、正しいことを言ったために捕らえられる囚人がおり、圧迫されて打ちひしがれている人々がいるのです。イエスさまはそういう私たちの自己中心的な思いを、そういう罪を打ちくだくために、この世に来たのです。イエスさまは、他人を救うけれども自分自身を救おうとしないで、自分は十字架で死ぬ気でいます。   《預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ》というのは、郷里の人は預言者という偉い人を自分の小さな目線でしか見ようしないから、そうなるのではないかと思います。これも人間の自己中心的な思いの表れです。そしてイエスさまは、預言者が自分の故郷では歓迎されないことを、代表的な預言者であるエリヤとエリシャを引き合いに出して論じます。サレプタのひとりのやもめ(列王上17章)とアラムの将軍ナアマン(列王下5章)の例を引いて、多くのやもめがいたのに、また多くの重い病人がいたのに、このサレプタのひとりのやもめと、アラムのナアマンだけがいやされたというのです。これはどちらも異邦人で、どちらも謙遜にさせられて、救われた人です。つまり、このことわざは、イエスさまの福音が同族のユダヤ人には歓迎されずに拒否され、異邦の国々に向かうことの預言として用いられているのです。   ナザレの町の人は同じ自分たちの町から出たイエスさまならば、まず自分たちの町で奇跡を示せと自分たちの特権を主張しますが、イエスさまは、自分の選民性を誇ったり、自分たちは特別に救われる価値があるなどと主張する人には、いやしも与えられなければ、救いもないのだと言います。   あの日、ナザレの会堂の人たちは、イエスさまが「主の恵みの年」が、《今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した》と宣言した言葉を聞きました。私たちも、今ここで聞きました。信じて受け入れるならば、この救いは今日、私たちの現実となるのです。信じる者となりましょう。新しい一年の上に、神の恵みが豊かにありますように。


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