2019年1月27日  顕現節第四主日  ルカによる福音書5章1〜11
「漁師たちを弟子にする」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。》

  きょうの御言葉は、イエスさまの招きによって最初の弟子たちが生まれた出来事を伝えています。
  その日、イエスさまはゲネサレト湖畔に立っていました。このゲネサレト湖は聖書の中でいくつもの呼び名を持っています。旧約では「キネレト湖」、マタイ・マルコ福音書では「ガリラヤ湖」、ヨハネでは「ティベリアス湖」と呼ばれています。そのように呼ばれるのは、ガリラヤ地方にあるため、北西岸にゲネサレト平原が広がってため、西岸に首都ティベリアスあるため、そしてこの湖は竪琴(キンノール)の形をしているためなのです。
  イエスさまが一人でいるのを見つけると、《神の言葉を聞こうとして》、人々が集まってきました。あまり《群衆が押し寄せて来た》ので、イエスさまは、漁を終えて網を洗っていたシモン・ペトロの舟に乗り、少し岸から離れるように頼み、そこから岸にいる人々に教えを宣べたのです。ペトロは、その日の漁を終えたとはいえ、網を洗うという仕事をしていました。突然のイエスさまの申し出ですが、ペトロは断りませんでした。自分の姑を癒してもらった恩義があったためかもしれませんが、そもそも安息日の午後にイエスさまを自分の家に招くほどですから(ルカ3章38〜39)、ペトロもまたイエスさまの話を聞きたかったに違いありません。
  説教が終わって、イエスさまの口から出た言葉は、まったく意外なものでした。《沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい》と言われたのです。ペトロが漁を終えて網を洗っていた時に教えを説き始めて、語り終わった時ですから、その時はもう昼近くになっていたかもしれません。こんなに日が高くなってから漁をしろと言われても、漁師であるペトロの常識から言うと、魚がとれるはずがありません。それがペトロの言葉の中に表れています。《先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした》。この湖の漁師は夜中に漁をしたと言われています。日中、魚は湖の深い所にいて、夜になると水面近くに上がってくるからです。
  ところが、このとき、ペトロは自分のプロとしての判断を横に置きます。イエスさまが言われた通りに、ただ《お言葉ですから、網を降ろしてみましょう》と言って、網を降ろしたのです。結果は、網が破れそうになるほどの大漁でした。ペトロは驚きました。驚いたというよりも、畏れたと言った方が良いでしょう。舟が沈みそうになるほどのあり得ない大漁。神の恵みはペトロを圧倒しました。夜通し働いても一匹もとれなかった魚がこんなにたくさんとれたのですから、これは御利益を受けたわけです。しかしペトロはこの御利益をただ喜ぶだけではいられませんでした。ペトロは、イエスさまの足もとにひれ伏して、《主よ、わたしから離れてください、わたしは罪深い者なのです》、と告白せざるを得なかったのです。神がイエスさまを通して私たちに与える御利益は、私たちが御利益信仰に止まっているわけにはいかない恵みなのです。このとき、ペトロはイエスさまを「先生」ではなく、「主」と呼んでいます。「主」は新約聖書の中で旧約を引用するとき、神について使う言葉です。
  《主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです》。これは、ペトロの悔い改めの言葉です。ペトロはイエスさまの言葉と業によって、イエスさまが聖なる方であることを思い知ったのです。そしてその時、口に出たのがこの言葉でした。何か過ちを犯したという罪の告白ではなく、聖なる方に出会って、自分自身の汚れを知り、「わたしは罪深い者です」と告白したのです。それが罪の告白ということなのです。悔い改めとは、自分の心の中をのぞき込んで起きることではありません。悔い改めとは、この聖なる方との出会いの中で起きる、神への立ち帰りです。
  ペトロはイエスさまの言葉とイエスさまによる不思議な出来事によって、この聖なる方との出会いを与えられたのでした。これは、今も同じです。私たちは言葉だけでは、なかなか聖なる方との出会いという所にまで至りません。どこか頭で納得するという所を超えられないものです。しかし、それが出来事となるとき、告げられていた言葉の真実を思い知らされ、聖なる方の御前に引き出され、自らの罪を悔い改めるということが起きるのです。
  このとき、ペトロは聖なる方の前にいる自分を見出しました。そして、自らの罪を示されます。しかし、そのようなペトロに、イエスさまは、《恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる》という、召命を与えたのです。このイエスさまの召命によって、ペトロはまったく新しい人生を歩む者となりました。生まれ変わったのです。ペトロはこのイエスさまの言葉によって、すべてを捨てて、イエスさまに従う者となったのです。
  このような記事を読むと、ペトロはすべてを捨てたけれど、自分は捨てられるだろうかと心配する人がいます。しかし、召命というものは、皆一人一人違います。私たちは自分に与えられた召命に忠実であればよいのです。ただし、少なくとも、イエスさまに従うときに何も捨てないということはあり得ない、とは言えるでしょう。それぞれが、自分に与えられた召命に従って生きるとき、何かを捨てるということは必ず起きるのです。私たちは、毎週ここに集っているということは、この時間を神に献げ、この時間にできる何かを捨てているということでしょう。イエスさまに従って何かを選び取るということは、それ以外の何かを捨てるということになるのです。
  ところで、「人間をとる漁師になる」とは、どういうことでしょうか。イエスさまはペトロに、《沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい》と言いました。この「沖」と訳された言葉は、元の意味は「深み」です。海の深みというのは、聖書では、どちらかというと不吉なものとして描かれています。暗黒の世界、サタンが支配しているようなところです。そこに網を降ろして魚を生け捕りにして、網を引き揚げる。すなわち、暗黒の世界に住んでいる人間を生きたまま神の国に引き揚げるということです。
  ペトロはイエスさまに対して、《わたしから離れてください》と言いました。しかし、イエスさまの答えは、《あなたは人間をとる漁師になる》というものでした。これは、「私はあなたから離れない。いつも共にいる。そして、あなたは私と共に、私の業に仕える者として生きるのだ」、と言われたということです。
  「召命」は、キリスト教独特の言葉です。きょうの個所では、ペトロがイエスさまの弟子となる召命を受けました。しかし、聖書には、このような召命の記事がたくさん記されています。きょうの旧約の日課、エレミヤ書1章も、エレミヤが預言者としての召命を受けた個所でした。おおよそ、神の御業に用いられる者は、すべて神の召命を受けて立てられるのです。
  召命に忠実に生きるのは、牧師だけのことではありません。すべてのキリスト者は、召命を受けてキリスト者となったのです。主婦としての召命を受けている人。技術者として召命を受けている人。学校の教師として召命を受けている人。皆、神からの召命を受けて、それぞれの場に遣わされ、生かされているのです。教会というのは、召命を受けた者の共同体ということもできるでしょう。ここに、自発的に集まって形作られるボランティア団体との違いがあります。教会は、自分たちで集まってきたというよりも、神によって召されて集められた者の群れということです。そして、各々が自分に与えられた召命に忠実に生きるとき、生き生きと喜びをもって主に仕える群れとしての教会が建ち上がっていくのです。
  私たちも、キリスト者として生きるようにイエスさまに召し出されました。その時のことを、決して忘れることがありませんように。「恐れることはない」と言って御許に招き寄せ、御用のために用いてくださるイエスさまの信実に依り頼んで、生涯、召命に忠実な者として歩んでいきたいと願います。


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