2019年2月3日  顕現節第五主日  ルカによる福音書6章17〜26
「幸いとわざわいの宣言」
  説教者:高野 公雄 師

  《17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
  20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。21 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」》


  イエスさまが、山の上で十二人の使徒たちを選び、使徒たちと共に山から下りていくと、大勢の人々が待ち受けていました。彼らは《イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた》のです。
  イエスさまはいやしや救いを求めてくる者に、代価や資格を求めませんでした。どれだけ律法を守って敬虔な生活をしているか、社会生活で道徳的に立派な振る舞いをしているかなど、いっさい資格を問題にしませんでした。また、いやされた者に代価を求めたりもしませんでした。病気のいやしに示される神の救いの働きは、無資格の者に無条件で与えられるものであって、神の恵みの具体的な現れでした。これから語り出されるイエスさまの教えも、まさにこの絶対無条件の神の恵みの宣言に他なりません。いやしの働きも教えの言葉も、共に神の恵みの現れなのです。
  そのとき、《イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」》。
  イエスさまのこの言葉は、使徒と弟子たちだけでなく、多くの民衆も聞いていました。そこには実際に、貧しい人も富む人も、飢える人も満腹する人も、泣く人も笑う人もいたことでしょう。この教えは、ありとあらゆる人たちに向けて語られているのです。
  そして、この言葉は、山から下りてから《平らな所》で語られたので、マタイ福音書の「山上の説教」に対して、ルカ福音書の「平地の説教」と呼ばれます。イエスさまが十字架の赦しと恵みのもとに生きるとはどういうことかを語った内容を一方は山の上で、他方は山の下で話したとしています。どちらが事実なのかと考える必要はありません。イエスさまがいろいろな時と所でくりかえし語ったことを、マタイとルカはそれぞれの見地からまとめているのです。山上の説教ち平地の説教は、どちらも事実であったと見て良いでしょう。
  ルカ福音書を読むときに注意しなければならないのは、イエスさまがこの地上にいた時は、メシアの時代が現実に地上に到来した特別な啓示の時であったということです。言わば、終末が今、地上に来ている状況だったのです。それは、イエスさまがカファルナウムの会堂で、イザヤ書61章を引用して《主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために》と言ってから、《この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した》(4章21)と言われたことからも分かります。イエスさまの到来によって、突然に終末の光がこの地上に差し込んで来ると、私たちが普段生活している人間社会の実態が、その光に映し出されて、根底から暴露されるのです。そこに映し出されるのは、普段私たちが考えている世界やその価値観とはまったく逆さまの世界、価値観が逆転した世界です。
  きょうの御言葉では、前半の四つの「幸いな人」と、後半の四つの「不幸な人」との組み合わせで、「貧しい/富む」、「飢える/満腹する」、「泣く/笑う」、「憎まれる/ほめられる」を対にして、「幸いな人」と「不幸な人」の二種類の人たちをはっきりと対照させています。このような幸いと不幸との対比は、ここだけではなく、《飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返され》る主をたたえる「マリアの賛歌」(1章46)にも、「宴会の席で上座を選ぶ人」のたとえ(14章7以下)にも、「金持ちとラザロ」の話(16章19以下)にも、「ファリサイ派の人と徴税人」の祈り(18章9以下)にも表わされています。
  今回の教えでは、「今貧しく、悲しみ、飢えている」人たちに「幸い」が約束されています。ところが、申命記28章では、神の祝福と神の呪いとがはっきりと対照されていて、そこでは、祝福された者は飢えることがなく豊かさに恵まれます。旧約聖書では、豊かさは神の祝福だと考えられてきたのです。
  しかし、捕囚期以後の初期ユダヤ教の頃になると、国の支配階級や特権階級など「豊かな者たち」に「わざわい」と「呪い」の言葉が向けられるようになります。一方では、飢えている人、泣いている人、貧しい人たちがいます。もう一方では、そういう貧しさや飢えや泣き叫んでいる人たちを、虐げや搾取によって「作り出して」いる者たちがいます。預言者アモスは、民を虐げる北王国イスラエルの貴族や富裕階級の人たちを激しく糾弾しました(アモス5章18)。イザヤも同じように、当時の南王国ユダの富んで飽き足りている人たちを攻撃しています(イザヤ5章8〜24)。エレミヤは、当時の南王国ユダにおいて、誤った預言で民を惑わす偽預言者たちを激しく非難しました(エレミヤ14章14〜16)。
  イエスさまはこのように、虐げられた者と虐げる者とをはっきりと対照させ、神の御心は、貧しい者を立たせると同時に、飽き足りておごり高ぶる者たちを厳しく糾弾すると告げるのです。
  イエスさまは、貧しくて泣いている人たち、飢えている群衆に向かって直接に語りかけました。イエスさまが「幸いだ」と言われる人たちは、現実には、今「幸いな」状態にある人たちだとは言えません。むしろ逆の状況にあると言えます。しかし、イエスさまの御言葉は決して気休めではありません。「そのうちにいつか未来に良いことがあるだろう」とか、「あの世で幸いになれる」という意味でもありません。ではイエスさまは、そういう人たちに向かって「幸いだ」、しかも今のこの時において幸いだと言われたのはなぜでしょうか。それは、「イエスさまが共におられる」からです。苦しい状態の中にあっても、そこにイエスさまが共にいてくださる、このイエスさまの臨在に救いの根源が宿っているからです。イエスさまが人々と共にいてくださる場、そこにははっきりと神の国があるのです。そのとき、私たちは、「今ここで」神の国が始まっている実感できるのです。
  とは言え、飢えや涙は、人が地上にある限り最終的に解決することはありません。神の国が完全に成就するのは終末においてです。「主の日」には、預言者の預言どおりに「飽き足り」「笑う」のです。しかし、神の国は、すでに《今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した》(4章18以下)、とイエスさまが語るように、御国の到来はすでに始まっています。イエスさまの御臨在は、終末の希望へと人を導くだけでなく、終末に向けてすでにその働きを始めていて、御国の新たな創造による実現へと歩み続けているのです。
  しかしイエスさまは、現在の「貧しさ」や「憎まれること」をそのまま肯定していて、終末での逆転に期待をつないでいるのではありません。そうではなく、イエスさまと共にある時には、すでに御国が現臨していて、終末がその力を発揮していると語るのです。ただし、従来まで信じられてきた社会的通念としての神からの「祝福」と「呪い」が、ここで完全に転倒しているのを知らされます。これがイエスさまの御国の到来に伴って生起する「価値観の逆転」です。ここには、人が神の裁きの前に立たされる終末が、「すでに現在の中に」含まれて働くのです。ルカの教会には、裕福で社会的にも上のクラスの人たちが大勢いたのではないでしょうか。このために、ここで語られる四つの「幸/不幸」の対照を語ることで、教会に集う人々が福音のあり方に沿って歩むように、反省と祈りを求めているのでしょう。
  神の祝福は、旧約の戒めや律法を守ることによって来るのではありません。祝福は新約が伝えるイエスさまの十字架の赦しと恵みによってもたらされるものです。私たちはイエスさまの祝福を受け取り、その幸いの中に生きる者として召されています。イエスさまの祝福は、それを受けた者が本当にその言葉の中に生き切ることができる力を与えるものです。


inserted by FC2 system