2019年2月10日  顕現節第六主日  ルカによる福音書6章27〜36
「敵を愛しなさい」
  説教者:高野 公雄 師

  《27 しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。》

  イエスさまは御自分のもとに来た者たちを祝福し、神の国に入る約束を与えてくださいました。そして、その祝福のもとで生きる者はどのようにこの地上の生涯を歩むのかを示してくださったのです。それが、きょう私たちに与えられている御言葉です。
  《しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し・・・》と始まります。この「しかし」は前の言葉を受けています。そこでは、富んでいる人、満腹している人、笑っている人、ほめられている人は、イエスさまに「不幸だ」と言われています。彼らは自分たちを呪い、辱める人かも知れません。それを聞いた弟子たちが他人事のように「いい気味だ」などと思いそうだと、イエスさまが予見しての「しかし」なのでしょう。
  イエスさまは《敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい》、と言います。マタイ5章43〜44には、《あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい》とあります。旧約聖書には「隣人を愛しなさい」という言葉はありますが、「敵を憎め」という言葉はありません。人から命じられなくても、敵は憎むのです。それは私たちの自然の感情です。敵を愛するということは、憎むという感情に逆らって、意志でもって敵を愛するということです。それは難しいことですし、偽善的と言われるかもしれませんが、私たちは日常生活でいくらでもしていることです。敵を愛することだけでなく、隣人を愛することも同じように難しいのです。
  私たちは、ここで、この言葉を語ったイエスさまというお方と、この言葉の関係を見なければなりません。この言葉は、この言葉を語られた方と切り離すことはできないのです。イエスさまは、このように語った通りに生きのです。イエスさまは多くの人の病いをいやしましたが、その人からの見返りを求めたことは一度もありませんでした。イエスさまは弟子たちを愛しましたが、裏切られました。しかし、イエスさまは復活の後、自分を十字架の上に見捨てた弟子たちをふたたび召して遣しました。そして、イエスさまは十字架の上でこう祈りました。《父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです》(ルカ23章34)。まさに、自分を十字架につけて殺そうとした者たちのために、彼らの赦しを神さまに祈ったのです。
  イエスさまは、この地上にありつつ神の国に生きました。その存在をもって、神の国がどのような所かを示したのです。そして、「あなた方も、この神の国に生きるのです。ですから、敵を愛しなさい」と告げたのです。イエスさまは、自ら十字架にかかり私たちに神の国への道を開いてくださいました。ですから、そのイエスさまがこの神の国に生き、神の国を証しする道をも開いてくださるに違いないのです。つまり、イエスさまはこの戒めに生きようとする者に、それが出来る力をも与えてくださるということです。
  《悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい》と言われています。祝福するとか、祈るということは、神の前ですることです。これは一層難しいことかも知れませんが、神の前でなら自分を呪う者を祝福できるし、自分を辱める者のために祈ることもできるかも知れません。私たちも神の前に出たならば、自分もまた人を憎むし、人を呪いたくなるし、人を辱める可能性があることを素直に認めることができるし、自分が神に赦された者であることを知ることができるからです。それに、神に祈るわけですから、その憎い人が直接自分の目の前にいませんし、直接具体的に相手に親切をしなくてはならないということでもないからです。現実には相手を赦せなくても、せめて神の前で祈る時には相手を赦すという心をもつ、その積み重ねが大事なのだと思います。マルコ11章25に《立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる》というイエスさまの言葉があります。「立って祈るとき」というのは、「せめて祈る時ぐらいは憎いと思っている相手も赦してあげなさい」という意味にもとれると思うのです。そのように祈りつづけるうちに、相手を次第に赦せるようになると期待できます。
  イエスさまは《隣人を自分のように愛しなさい》(マルコ12章31)と言いましたけれど、この《人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい》という言葉は「自分のように」ということをうまく言い表していると思います。自分がその立場にいたら、相手に何をしてもらいたいかはよく分かるでしょう。
  《あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい》とあります。ここはマタイ5章48では、《あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい》とあるところです。ここで使われている「憐れみ深い」という言葉は、相手の立場に立つ、他者の苦しみを自分のものにするという意味だそうです。それはまさに《人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい》ということ、相手の立場に立って、相手が一番望んでいることをするということです。もちろんそれは相手の言いなりになるということではなく、本当の意味で相手の立場にたって、相手が今一番なにを欲しているかを分かってあげるということです。
  そしてイエスさまは、《自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか》と言い、《あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい》と言うのです。愛は報酬を求めないと言うのです。しかしその後で、イエスさまはこう言います。《何も当てにしないで貸しなさい。そうすればたくさんの報いがあり、いと高き者の子になる》。つまり、何も当てにしないで貸してやれば、神からの報いがある。だから、直接相手からの報いを当てにしないで、貸してあげなさいということです。そのような無報酬の愛をしていれば、必ず神からの祝福があることを確信し、またそれを期待してもいいのです。マタイ6章3〜4もまた、《施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる》と言われているのです。ここでも天の父からの報いを求めるということ、そして天の父からの祝福を当てにするということがもっとも信仰的な姿勢なのだと言われているのです。
  これは確かに神からの報いであって、人間からの直接の報いではないかも知れません。しかし38節には《与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである》とあるので、ここは明らかに人からの報いがあると言われているわけです。愛は必ず応答を求めるものです。応答を求めないような愛は、ひとり善がりな愛であって、本当は愛ではないのです。神もまた私たちに愛を切実に求めて、《心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい》(10章27)と言われているのです。それは何よりも神が私たちに愛を求めているからです。イエスもペトロに対して、三度も「あなたはわたしを愛するか」(ヨハネ21章15以下)と求めたのです。応答を求めないような愛は愛ではないのです。
  父なる神の憐れみは、罪人を赦すというあり方で示されました。私たちはその憐れみの故に、新しく生きる者とされたのです。ですから、この父なる神の憐れみに応えて、感謝の中で父なる神の憐れみを身に受けた者としての歩みを献げないではいられません。それは、意志としての愛に生きることであり、さらに具体的に言えば、赦す者として生きるということです。


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