2019年2月17日  顕現節第七主日  ルカによる福音書6章37〜49
「人を裁くな」
  説教者:高野 公雄 師

  《37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
  43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
  46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。》


  《人を裁くな》と、イエスさまは言います。この言葉は、《あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい》という言葉の後に続けて言われています。「憐れみ深くなる」ということが、「人を裁かない」ということなのだというのです。私たちは本当にすぐに人を裁きたがるものだからです。ここで「裁く」とは、宗教的道徳的に価値判断をすることです。
  第一ペトロ4章8に、《何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです》という言葉があります。多くの罪を覆う愛とは、まさに人を裁かない愛のことです。
  イエスさまは「人を裁くな」と言ったあと、すぐ続けて《そうすれば、あなたがたも裁かれることがない》と言います。この言葉は、《赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである》と続きます。ですから、単に「人を裁かなければ、神からも裁かれない」と言うだけでなく、人からも裁かれないということも言われているようです。日本にも「情けは人のためならず」ということわざがあります。「情けというのは、人のためにしておけばやがていつかは自分に帰ってくるものだ、だから人に情けをかけておけば損はない」という意味です。何とかして、人に情けをかけることができるようにと促すことわざです。私たちは無報酬の愛などということで動かされることはなくて、必ずその報いをどこかで求めるものです。それでもいいから、人に親切にしてやりなさい、人を裁くことをやめなさいと、イエスさまは私たちに教えようとしているのです。

  次に、イエスさまは裁くことの愚かさを示すたとえを二つ語ります。ひとつは《盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか》というたとえ。そしてもうひとつは《あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか》というたとえです。イエスさまは人を裁かないお方ですから、その弟子であるあなたがたも人を裁いてはいけないということです。私たちは自分を裁く者の立場に置いて、人を判断し、批判したいのです。自分の目の中に「丸太」があるのに、自分は欠点や過ちをいくらでも犯す者であるのに、自分のことは棚に上げて、人の目にある「おが屑」、人の小さな欠点を重箱の隅をつついて批判する。それはまるで盲人が盲人を手引きするようなものだと言うのです。
  ですから、《人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない》という言葉は、憐れみ深い父なる神によって私たちの罪が赦される、その現実のなかで、私たちは始めて人の罪を裁かないことができるようになると言っているのです。
  私たちが人を裁かないようになれるのは、自分もまた罪人だということに気がついただけでは足りないということです。自分の目の中に丸太のような大きな欠点をもち、過ちをもった者であること、つまり自分の罪を自覚しただけでは、人の罪を赦せるようにはなりません。そういう罪をもっている私たちが、憐れみ深い神によってその罪が赦されているという事実を知る時に始めて、私たちは人の罪を赦せるようになるのです。そして、その時に始めて他人の目にある「おが屑」を指摘し、その「おが屑」を取り除けるようになるのではないかと思います。自分の罪が赦された者として、相手の罪をも赦しながら、忍耐強く、その過ちを取り除いていこうとするのです。

  最後に、イエスさまはこの教えの結びとして、「良い木と悪い木」と「家と土台」のたとえを話します。この二つのたとえは、「信仰と行い」の関係について語っています。《悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない》。すなわち、良い木が良い実を実らせるのですから、良い実を生らせようとするなら、まず良い木になることが大切です。そしてその良い木になるとは、イエスさまにつながるということなのです。良い木が良い実をならすように、《善い人は心の倉から良いものを出し》ます。つまり、イエスさまに対する信仰が善を生みだすのです。大事なのは、良い木になることで、そうしたらおのずから良い実をならせることができる、と言っているのです。
  良い木が良い実をならせるのであって、その逆ではありません。善行を積むことによって信仰が生まれるわけでも、救いが得られるものでもありません。そのあとに、イエスさまは、《木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる》と言っています。私たちはこれを聞くと、すぐに良い実をならせようとします。しかし、良い木が良い実をならせるという順序を忘れて、ただ良い実をならせようと努力しても、私たちは結局は悪い実をならせることになります。それは良い木につながって良い実を結ばせようとしていないからです。なぜなら、善をしようとする意志はあっても、人にはそれをする力がないからです。
  ですから、大事なことは、良い実をつけようとして努力することではなく、良い木につながっていようと努力することです。ヨハネ15章1にも、《わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人につながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである》と述べられています。
  イエスさまは《木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる》と言いますが、イエスさまと違って、私たちは、その木が良い木であるかどうか、ただその実を見たただけでは分からないのではないしょうか。ですから、本物と偽物を見分けるためにも、私たちはイエスさまというぶどうの木にしっかりとつながっていなくてはならないと思います。
  そしてイエスさまは《わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている》、と言います。ここでは、どんな良い建築材料を使っているかということは問われないのです。ただイエスさまという土台の上にその建物を建てているかどうかが問題なのです。どんなにみすぼらしい建築材料でもいいのです。私たちも自分のことを考えれば、五タラントン、二タラントンでなく、一タラントの建築材料しか預けられていない者であるかも知れません。しかしそれでも、その一タラントンをイエスさまから預かったタラントンとして用いようとするならば、それは立派な実を結ぶのです。それを地面に埋めてしまったら、絶対に実をみのらすことはできません。愛に大きい小さいはないのです。
  これは「善行の勧め」ではありません。そうではなく、イエスさまとつながっていなさいという「信仰の勧め」です。私たちは神に愛され、罪を赦され、今、新しい人間として生かされています。いつでもどこでもこの恵みの事実を忘れないで、日々新たにイエスさまの御言葉に聴き、そして従いましょう。


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