2019年2月24日  顕現節第八主日  ルカによる福音書7章1〜10
「百人隊長の信仰」
  説教者:高野 公雄 師

  《1 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。2 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。3 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」9 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。》

  9節に、《イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない』》とあるとおり、この物語は、百人隊長の中に《イスラエルの中でさえ》見たことのない、まことの信仰のあり方を見ています。この物語は、イスラエルの人々の信仰のあり方、私たちの信仰のあり方に対して示唆を与えているのだと思います。では、この百人隊長の信仰の何が、イエスさまをして、このように言わしめたのか、それを見ていきましょう。
  イエスさまは「平地の説教」を終えると、《カファルナウム》に戻りました。カファルナウムはガリラヤ湖の北西岸にある町です。ヘロデ・アンティパスの領地であるガリラヤの東の端にあってフィリポの領地と接していましたから、ここには収税所(税関)が置かれ、軍隊が駐屯していました。その軍隊の隊長がこの百人隊長です。ヘロデの軍隊は外国人の傭兵(金銭で雇われた兵士)が大部分であり、その百人隊長も外国人が任命されるのが普通であったと言われています。
  この百人隊長は、自分の部下が病気で死にかかったので、イエスさまに助けを求めたのです。ここで「部下」と訳されている言葉は、僕(奴隷)を意味する言葉ですから、この病人は部下の兵卒ではなく、召使い(家内奴隷)の可能性が高いと考えられています。当時、奴隷が死にそうになったとしても、主人自らが何とかしようと動くことは、稀なことであったと考えられています。そして、この百人隊長は異邦人でありながら、ユダヤ人を愛し、ユダヤ人の会堂を建てたりと、大変、慈しみの心にあふれた人であったように思われます。
  この百人隊長のイエスさまに対する接し方、僕のいやしの願い方が、実に特徴的でした。彼はイエスさまのもとに直接来て、僕のいやしを願ったのではありません。ユダヤ人の長老たちに仲介に入ってもらうのです。そして、その長老たちの仲介よろしく、イエスさまがこの百人隊長の家の近くにまで来ると、さらに友人たちを使いに出して、《御足労には及びません》と言うのです。なぜこのように、間に人を立てるような面倒なことをしたのでしょうか。彼は、《わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました》と言います。つまり、彼はイエスさまをまことに聖なる方、神の人として、畏れうやまうがゆえに、自分のような異邦人が直接イエスさまにお会いして、お願いすることをはばかったということなのです。使いの友人たちの言葉は、主語がすべて「わたし」であって不自然に感じますが、百人隊長が直接イエスさまに会って語っているかのように描かれているのです。
  ところで、彼の仲介に立ったユダヤ人の長老たちは、《あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです》と言います。つまり、ユダヤ人の長老たちは、この百人隊長の善き業を見て、イエスさまの憐れみ、神の憐れみを受けるに「ふさわしい」、つまり救いにあずかる資格がある、と考えています。ところが、当の本人は、少しもそんなことを考えていません。自分は、イエスさまのもとに自分の方から伺うことさえふさわしくない。自分はイエスさまの憐れみを受けるに値しない者である、と考えていたのです。自分はユダヤ人の会堂も建ててやったのだし、神の憐れみを受けても当然であるなどとは、少しも考えていません。自らの中に、何ら誇るものを持たず、自分が救われるのは当然であるなどとは少しも思わず、ただ、神の憐れみ、慈しみを願い求めているのです。当時のイスラエルの人々は、自分はアブラハムの子孫であり、律法を守っており、神の憐れみを受けるのが当然であると思っているところがありましたが、この人には、そのような神の御前における高ぶりがありません。これこそ、イエスさまが《イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない》と言われた第一の点なのです。
  この謙虚さは、自己卑下や自虐とはまったく違うものです。ある時、イエスさまは弟子たちにこう言います。《五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている》(ルカ12章6〜7マタイ10章29〜31)。そのように安い(マタイ10章では二羽で一アサリオン)雀でさえも、神の配慮から漏れることはない。まして、あなたがた人間はその雀よりもまさった者ではないか。だから神が見捨てるはずはない、と神の顧みを保証します。神は私たちが自分のほうでどこもに価値が見出だせないでいるときに、神のほうでは私たちの中に価値を見出だし、価値ある存在として見てくださって、救ってくださるのです。この神の愛の眼差しのもとで、私たちは感謝と喜びとともに、神の御前での謙虚さへと導かれるのです。
  私たちの中に、自分は洗礼を受けている、礼拝を守っている、献金もしている、だから自分は神の憐れみを受けるにふさわしい、そう知らず知らずの内に思っているところはないでしょうか。しかし、私たちは生まれつき、神を知らず、それゆえに神に敵対して生きてきた者なのです。この異邦人の百人隊長がただイエスさまの憐れみを、それを受けるにふさわしくない者であるにもかかわらず受けた。それと同じなのです。私たちの救いは、どこまでも「ただ恵みとして」です。神の恵みを当然のこととしてはなりません。

  さて、第二の点です。この百人隊長は、《ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください》と言います。イエスさまに、わざわざ来ていただくには及びません。イエスさまが一言おっしゃってくだされば、その一言によって私の僕はいやされます。あなたの言葉は神の言葉であり、それゆえ、その言葉によってすべては実現されるはずです。そのような、イエスさまへの信頼、イエスさまの言葉の力に対しての信頼を言い表したのです。ローマ式の軍隊では、上官の命令は絶対です。部下は、命の危険があっても命令の言葉に従って行動します。それと同じく、彼はいま、自分にとって大切な人の生死をイエスさまの言葉に委ねます。
  それは、イエスさまをまことの神として受け入れ、信頼している信仰の告白と言っても良いでしょう。当時、イエスさまを見ていたユダヤ人の多くは、イエスさまを不思議な力を持った行者、預言者の類として見ていたのでしょう。そういう中にあって、この百人隊長のイエスさまへの信頼は、まことに目を見張るものがあったわけです。
  イエスさまの言葉、御言葉の力に対しての信頼です。私たちは日曜の礼拝に何を求めて集っているのか。生ける神の言葉です。それ以外ではないでしょう。説教を聞き、神の言葉を受ける。ここで自分に語られた言葉は出来事になります。空しく消えていくことはありません。私たちは、そういう信仰を持って受け取ることが求められているのです。
  きょうの御言葉は、ユダヤ教やユダヤの伝統的な律法からは除外されていた異邦人にも救いが及ぶこと、しかも、「イスラエルの中でも見られないほど」の信仰が異邦人の中に見出だされたことを伝えています。イエスさまが、この異邦人の百人隊長の中に見た信仰とは、まことの謙虚さとまことの信頼でした。この謙虚さと信頼こそ車の両輪であって、神が私たちに求めておられることに他なりません。この百人隊長の姿こそ、私たち異邦人キリスト者の雛型と言っても良いものです。私たちは、謙虚に、そして深い信頼をもって、イエスさまとの交わりに生きていきたいと思います。


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