2019年6月23日  聖霊降臨後第ニ主日  ルカによる福音書7章11〜17
「ナインの若者の蘇生」
  説教者:高野 公雄 師

  《11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。》

  イエスさまはナインという町に行かれました。このナインという町は、ガリラヤ地方南部の重要な町で、城壁に囲まれた中にありました。その町の門に近づくと、門の中から葬式の列が出てくる所にイエスさまの一行は出くわしました。人が死ぬと、その遺体を葬るために、町の外にある墓地へと運び出します。当時の習慣に従って、大勢の人々が泣き声を上げながら、遺体を乗せた「ひつぎ」をかこんで歩いて来ます。「ひつぎ」と言っても、担架とか戸板のようなもので担がれていて、亜麻布でくるんだ遺体はそのままに見えています。死んだのは、その町に住むやもめの一人息子でした。夫に先立たれ、女手一つで育てた一人息子が若くして死にました。この母の嘆きは、どれほどであったかと思います。
  愛する者の死ほど、私たちの人生の中でつらいことはないでしょう。しかも、若者の死はとくに無念の思いを強くさせられます。イエスさまは、この一人息子を亡くしたやもめの母親に目をとめます。そして、心を強く動かされます。ここで《憐れに思い》と訳されている言葉は、上から人を見下して憐れむような心の動きを意味していません。この言葉は、内臓を指す名詞から造られた特殊な動詞です。この内蔵という言葉は、人の奥底の感情を意味する語として用いられようになっていました。その動詞は、「はらわたが痛む」、「はらわたの底から憐れむ」という意味になります。福音書で苦しんでいる群衆に対するイエスさまの深い憐れみを指すときに用いられています(マタイ9章36など)。イエスさまは、一人息子を亡くして泣き叫ぶしかない母の姿を見て、はらわたを痛めて、心を動かされたのです。また、イエスさま自身もたとえ話で、王が借金を返せない家臣を憐れむ(マタイ「18章)とか、父親が放蕩息子を憐れむ(ルカ15章)とか、サマリア人が強盗に襲われた人を憐れむ(ルカ10章)という場面で用いています。
  私たちは愛する者を亡くした人の悲しみに出会うと、言葉を失います。何と慰めてよいのか分かりません。ところがイエスさまは、大胆に、驚くべき言葉を告げたのです。《もう泣かなくともよい》。かなり優しい言い方に訳していますが、直訳すれば、「もう泣くな」という、大変きつい言い方です。まるで、泣いている母親に向かって叱っているかのようにさえ聞こえます。しかし、これは、母親に向かってではなく、この母親をここまで嘆かせ、圧倒的な力をもってこの母親をおしつぶしている、死に向かって怒っているのだと思います。イエスさまは、この母をおしつぶしている死の力をはらいのけようとされます。それが、「もう泣くな」という言葉だったのでしょう。
  イエスさまは、若者の遺体を乗せた台に手をかけます。すると、担いでいる人たちは立ち止まりました。それは、墓場へと、陰府へと進む行進を、イエスさまがその前に立ちはだかって止めたということです。イエスさまは、すでに死んでいた若者に向かって告げます。《若者よ、あなたに言う。起きなさい》。死人に向かって「起きなさい」と命令して、どうなるのでしょう。まさしく、死人は起き上がってものを言い始めました。死んでいた者がよみがえったのです。ここに用いられている「起きる」という言葉は、神がイエスさまを死人の中から復活させたことを語るときに用いられている言葉です。神は死人の中からイエスさまを「起こされた」のです。死人に向かって「起きなさい」と命じ、生き返らせることができるのは神だけです。ここで神がイエスさまの中にあって働き、このような言葉を発し、その言葉通りに死人を起き上がらせているのです。
  イエスさまが死人をよみがえらせたという記事は、聖書の中に三つあります。一つはこのナインのやもめの息子、もう一つは会堂長ヤイロの娘(マタイ9章、マルコ5章、ルカ8章)、そしてヨハネによる福音書にあるマルタとマリアの兄弟ラザロ(ヨハネ11章)です。この三人に対してなされた、このイエスさまの奇跡は何を意味しているのでしょうか。この三人の出来事は、イエスさまが与える救いそのものではありません。この三人もまた、時が来ればやがて死にます。しかし、この出来事はイエスさまには死を打ち破る力があることを示し、またイエスさまの復活の出来事を指し示す「しるし」となりました。そしてまた、この出来事は、すべてのキリスト者に与えられるまことの救い、すなわち、罪の赦し・体のよみがえり・永遠の命を指し示しているのです。
  死は罪の値です。罪がなければ死もないし、死による悲しみもありません。イエスさまは復活によって死を打ち破りましたけれど、そのためには、復活の前に十字架による罪の赦しがなければなりませんでした。罪の赦しと体のよみがえりは、ひとつながりのことです。イエスさまの十字架によって罪赦された私たちは、たとえ死んでも、やがて時が来れば復活という救いにあずかるのです。この青年の耳もとでイエスさまが《若者よ、あなたに言う。起きなさい》と告げたように、やがて時がくれば私たちの耳もとで告げられるこのイエスさまの声を聞くのです。「起きなさい」、「復活しなさい」。そのイエスさまの御声と共に私たちはよみがえり、永遠の命に生きる者となります。死は私たちのすべての終わりではなくなったのです。
  この個所(13〜15節)で注目すべき重要な点は、文章の主語が「イエス」ではなく、《主》とされていることです。13節に《主はこの母親を見て・・・》とあり、以下この「主」を主語とする三人称単数形の動詞が続き、原文ではすべて「主」の行動として描かれています。「主」は復活されたイエスさまの称号です。使徒たちは復活されたイエスさまを「主」であると世界に宣べ伝えました。この「主」の名によって、ペトロはタビタ(ギリシア語に訳すとドルカス)を生き返らせ(使徒9章36以下)、パウロはトロアスの青年エウティコを生き返らせました(使徒20章7以下)。そのような体験があるので、ここでも使徒たちは、地上のイエスさまの出来事を語るときも、復活したイエスさま、「主」の働きとして語るのです。福音書は、地上のイエスさまの出来事によって復活されたイエスさまの福音を宣べ伝えようとしているのです。ですから、地上のイエスさまと復活のイエスさまが重なっているのです。
  さて、イエスさまの奇跡を目のあたりに見た人々は《大預言者が我々の間に現れた》と言いました。それは、先ほど列王記上17章で聞いたように、エリヤが死人を生き返らせたことがあり、エリヤの弟子のエリシャもまた、死人を生き返らせたことがあったからです(列王記下4章)。ですから、イエスさまのこの奇跡を見て、人々がエリヤやエリシャという旧約における力の預言者の再来と思ったのは当然のことでした。ただ、エリヤもエリシャも、このよみがえりの命をすべての者に与える救いをもたらした訳ではありませんでした。実に、イエスさまは、彼らの再来なのではなくて、彼らこそ、やがて来たるイエスさまという、まことの預言者、まことの救い主を指し示し、預言していたのです。イエスさまによって与えられる救いの出来事を指し示したのです。預言者とは、言葉と業と、そして何よりその存在をもって、まことの神でる主イエス・キリストを指し示す者だからです。
  人々は、イエスさまの奇跡を見て、《神はその民を心にかけてくださった》と言ったと記されています。これは直訳すると、「神がその民の所に来てくれた」となります。神が来てくださった。そう言って、彼らは神をほめたたえたのです。私たちの所にも、神は来られました。イエスさまは来られました。だから、私たちは洗礼を受けたのです。そして、私たちは「主のもの」、イエスさまに属する者とされたのです。イエスさまは、すべての罪と死とを打ち滅ぼす方として来られました。だから、もう私たちは泣かなくてもよいのです。光のない、出口のない暗闇の中で泣き続けなくて良いのです。逆に言えば、復活の光に照らされて、安心して泣いて良いのです。主の御手の中で安心して泣いたら良いのです。しかし、その悲しみは、もはや私たちを永遠に支配するものではなくなっているのです。私たちを永遠に支配される方、それは死ではなく、主イエス・キリストです。私たちは、死がもはや永遠でないことを知っているのです。時が来れば、自分も、自分が愛した一人一人も皆、イエスさまの御声と共によみがえるのです。それが、私たちに与えられている救いなのです。私たちは、神のもの、主イエスさまのものなのです。


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