2019年6月30日  聖霊降臨後第三主日  ルカによる福音書7章36〜50
「罪深い女を赦す」
  説教者:高野 公雄 師

  《36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。》

  イエスさまはファリサイ派の人の招きを受けて、その人の家で食事をしていました。食事を共にするということは、その人を受け入れる、親しい関係を持つということです。この律法学者はイエスさまを「先生」と呼んでいますが、安息日の礼拝のあと、説教者を食事に招いて、律法について議論をすることはよくあることでした。その食事はかなり開放的なもので、外から入ってくることができたようです。
  ここで、招いているのはファリサイ派の人で、招かれているのはイエスさまです。しかし、この食事の席で、その関係は逆転します。イエスさまがご自身との交わりの中に、ファリサイ派の人を招くことになったのです。私たちも自分で求めて、教会の門をくぐったのでしょうが、教会に来てみると、求めていたのは私ではなく、むしろ神が、そしてイエスさまが、長い間私を求め、私を捜しておられたことに気づかされたのではないでしょうか。そのイエスさまによる招きの物語が、この食事の席に突然入ってきた一人の女性とのやりとりの中で語られます。
  《この町に一人の罪深い女がいた》とあります。一体、この女性はどんな罪を犯していた人なのか、聖書は何も記していませんが、女性について公に「罪深い」というレッテルが貼られるのは、売春を職業としている場合です。
  この女性が、食事をしている席に突然入ってきて、イエスさまに後ろから近づいて、泣きながらイエスさまの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、さらに足に接吻して、香油を塗ったというのです。当時の食事は、イスに座ってするような形ではなく、低いテーブルのまわりに、足を投げ出して、ヒジをついて横になります。外から入ると、客の足がもっとも近づきやすいことになります。男性の前でかぶり物を脱ぎ、髪を解くことは、当時のユダヤ人女性には恥ずべきことでしたが、彼女はすべての慎みを忘れて、敬愛と感謝の思いを表します。足への接吻は、命の恩人への心からの感謝です。
  この女性は、イエスさまがこの町に来て、今日はファリサイ派の人の家で食事をしていると聞いて、どうしてもイエスさまの元に来たい、会いたいと思ったのでしょう。人々から罪の女と見られているこの女性にとって、ファリサイ派の人の家に行くということは、自分に向けられる冷たい視線も覚悟した上でのことだったでしょう。それでも、イエスさまにお会いしたい。そう思ったのです。彼女には、イエスさまにそのように感謝しないではいられない何かがあったのだと思います。イエスさまは、その思いを受け止められました。それだから、この女性の異様と思える行為も、止めなかったのです。この女性は、イエスさまとの交わりの中に招かれたのです。
  しかし、これを見ていたファリサイ派の人の心は穏やかではありませんでした。そして、心の中で思いました。《この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに》。彼はファリサイ派です。この「ファリサイ」という名は、「分ける、分離する」という言葉から生まれました。自分たちは律法を守っており、それゆえに清い者だ。律法を守らない汚れた者たちとは違う。そういう思いの中で、汚れた者たちと自分たちを分ける、決して交わらない、そういう人たちでした。彼らは、律法を守ることに熱心で、大変熱い宗教心を持っていたのです。ですから、彼らは、神の預言者とは、自分たち以上に罪や汚れに敏感で、そういう人を決して赦さないはずだ、と考えていたわけです。
  彼は、その思いを口にすることはありませんでしたけれども、イエスさまはその心の動きを読み取ります。そして、このシモンというファリサイ派の人に向かって、一つのたとえを話します。《ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか》。シモンは答えます。《帳消しにしてもらった額の多い方だと思います》。
  ここで借金というのは、罪をたとえているのでしょう。罪を帳消しにしてくださるのは神です。イエスさまはここで、この罪の女が多く赦された方で、ファリサイ派のシモンが少なく赦された方だと言っているようですが、罪というものは、多い少ないと量れるようなものではありません。ここで多い少ないと言っているのは、罪ある自分についての姿勢そのものを問うているのです。同じように罪を赦されていながら、それを自分の存在の根底からの大きな赦しと受け取る者と、そうでない者とがいるということです。自分の罪を軽くしか考えない人は、赦しもまた軽くしか受け取れません。しかし、自分の罪を本当に深く受け取る人は、赦しの恵みもまた大きく、深く受け取るということです。「どちらが多く・・・愛するだとうか」と問うたときの「愛する」は、感謝をこめた愛であり、「感謝する」と同じ意味だと考えてよいでしょう。
  罪を量で考える人は、必ず、罪の大きさを比較します。そして、あの人よりは自分はましだと思うでしょう。しかし、神の罪の赦しというものは、他人と比べようがありません。私と神の一対一の関係の中で与えられるものです。イエスさまはここで、ファリサイ派のシモンに対して、このたとえを語りながら、あなたは帳消しにしてもらう罪は少ないと思っているかもしれないが、あなたの罪も、この女の罪と同じように大きく、赦されなければならないものだ。そして、その罪は神の無条件の恵みによって赦されるのだと告げたわけです。
  この罪の女はイエスさまと出会い、自分がその存在の根底から赦された、自分はこれで生きていけると感じたのです。一切の罪が赦され、神の子、神の僕としての新しい命がそこに生まれました。だから、周囲の目も気にせず、イエスさまに精一杯の愛をささげたのです。神を愛し、イエスさまを愛することが、自分の人生のすべてとなる。そういう変化が起きたのです。
  イエスさまは、この罪の女に向かって、《あなたの罪は赦された》と告げ、さらに、《あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい》と告げました。この「信仰によって救われる」という宣言は、最初期の福音の旗印です。この女性は、イエスさまの言葉のとおり、受けた恵みの中で「安心して」暮らせばよいのです。今までの罪の生活と決別し、新しい神の子として、新しく歩み出していくことでしょう。そして、イエスさまの弟子として、教会の交わりの中で生きていくことでしょう。
  私たちはこの罪の女と重なります。私たちもまた、《あなたの罪は赦された》とのイエスまさの御声を聞き、新しく、イエスさまを心から愛する者として、イエスさまの御前に歩んでいきたいと思います。
  そしてまた、私たちは、このファリサイ派のシモンとも重なります。私たちの中にはこのシモンのような罪への鈍さがあり、他人と比べる愚かさがあります。しかし、イエスさまは、このシモンもまた、悔い改めた罪の女のように、自らを誇ることなく、ただ神の赦しの中に生きることを求めました。私たちも招かれています。この招きに感謝して、この招きに応える者として歩んでいきたいと心から願います。


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