2019年7月7日  聖霊降臨後第四主日  ルカによる福音書9章18〜27節
「死と復活を予告する」
  説教者:高野 公雄 師

  《18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
  23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」》


  イエスさまが《あなたがたはわたしを何者だと言うのか》と問うと、ペトロは弟子たちを代表して《神からのメシアです》と答えました。このペトロのメシア告白を受けて、イエスさまは誰にも話さないようにと戒めてから、ご自身の受難と復活を予告しました。マルコ8章27によると、それは、ガリラヤ湖の北四〇キロほどにあるフィリポ・カイサリア地方でのことでした。そして、この時からイエスさまはもはやガリラヤの群衆の中に立つことはなく、弟子たちだけと一緒に受難の地エルサレムに向かうことになります。
  《メシア》とは、ヘブライ語で「油を注がれた者」(油は聖霊の象徴です)を意味する言葉であり、終わりの日に神から聖霊を注がれた者としてイスラエルに遣わされる救い主の称号となっていました。この答えこそ、教会の二千年の歴史を貫く、信仰告白です。イエスさまを、まことの神の子、救い主として告白する。ここに、すべてのキリスト者の信仰の源流があります。私たちの信仰は、イエスさまが語った教えや普遍的な真理を信じるというよりも、実にイエスさまというお方を信じるということなのです。
  ペトロの告白は口語訳聖書では《神のキリストです》となっていました。新約聖書は当時の世界共通語であるギリシア語で書かれています。旧約聖書の言葉「メシア」をギリシア語に訳すと「キリスト」ですから、ここは原文では「キリスト」と書かれています。口語訳はそのまま「キリスト」と音訳しましたが、新共同訳はわざわざ旧約聖書の言葉である「メシア」と訳し直しました。このとき弟子たちがイメージしていたのは、あくまで当時のユダヤ教におけるメシアのイメージそのものだったからです。すなわち、メシアとは、その力をもってローマと戦い、これを破り、力による新しい世界秩序を立てるお方というイメージだったのです。それに対して、新約聖書の「キリスト」という言葉は、死して復活したイエスさまに対する称号として用いられています。この時点でペトロがイエスさまを「キリスト」とすることはありえないわけです。
  イエスさまはペトロのメシア告白を受けて、誰にも話さないようにと戒めてから、ご自身の受難と復活を予告しました。《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている》。この十字架と復活の予告を聞いたとき、弟子たちは、イエスさまが何を言っているのか分かりませんでした。同じ記事がマルコ8章とマタイ16章に記されていますが、イエスさまのこの予告を受けてペトロがイエスさまを《主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません》と《いさめた》とあります。イエスさまは《サタン、引き下がれ。あなたは・・・神のことを思わず、人間のことを思っている》とペトロを叱ったとあります(マタイ16章22〜23)。イエスさまは確かに救い主でしたが、その救い主としての姿は、弟子たちがイメージするようなものではありません。そのことを明確に示したのが、この受難予告だったのです。
  この受難予告の文の主語は「人の子」です。「人の子」という用語は本来は栄光の救い主の称号ですが、この受難予告でイエスさまは、受難して復活するご自分を指して「人の子」という言葉を用いています。
  きょうの個所で18〜22節は弟子たちだけとの対話ですが、23節からは《皆に言われた》言葉が始まります。マルコ8章34はここで明確に、《それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた》と記しています。この23〜27節は、イエスさまがさまざまな機会に語られた語録を一つにまとめて、イエスさまがご自身の受ける苦しみの秘密を語り出された受難予告の言葉の後に、そのような方に従う弟子のあり方として置いたものと思われます。
  イエスさまはまず《わたしについて来たい者は》と言われます。これは、イエスさまを救い主、キリストとして告白する者は、と言い換えても良いでしょう。イエスさまを我が主、キリストとして告白する者は、イエスさまを愛し、イエスさまに従い、イエスさまが歩まれた道をたどるようにして歩んで行く者となるのです。イエスさまが私たちに先立って、道を切り拓いてくださっています。私たちは、そのイエスさまの後ろ姿を見ながら、そこから目を離さないようにして、イエスさまが歩まれた道の上を歩んでいくのです。
  そして、このイエスさまの後についていく歩みは、《自分を捨て》る歩みとなります。この「自分を捨てる」というのは、「キリストを知る前の古い自分を捨てる」ということです。自分のこの世における利益だけを追い求めるような生き方を捨てるということです。ですから、次の《日々、自分の十字架を背負って》ということと重なります。この「自分の十字架」というのは、自分の病気とか、苦しみとかということを意味していません。この「自分の十字架」とは、神のため、イエスさまのため、そして隣人のために自分が担う重荷のことです。イエスさまは、自分のために十字架の苦しみを担われたのではなく、私たちのために十字架の苦しみを受けられました。十字架とは、愛の労苦なのです。ここで「日々」とイエスさまは言われました。毎日毎日の歩みの中で、神のために、隣り人のために、愛の重荷を担いなさいと告げたのです。これは、「自分の十字架」ですから、人と比べて、自分の十字架は大きい小さい、重い軽いと言うようなものではありません。自分が神によってそこに召されて担う、自分だけの重荷です。日々の歩みの中で、愛の労苦をいとわない、その歩みがイエスさまに従っていくということです。
  イエスさまを救い主として告白する者は、この自分の十字架を背負い、自分を捨てて、イエスさまに従う者とされるということです。それは、別の言い方をすれば「献身」、身を献げるという生き方をするようになるということです。「献げる」という生き方は、イエスさまをキリストと告白し、このイエスさまに従って歩もうとしたときに生まれてくる、実に新しい生き方なのです。イエスさまを知るまで、私たちは自分の手に何かをつかむ、手に入れる、そのために努力し、生きるという日々を送ってきたのだと思います。しかし、手に入れるのではなく、手放す。これが、十字架にかかったイエスさまに従って生きる者の新しい生き方です。イエスさまが十字架において私たちに新しく切り拓いてくださった道が、「献身」という歩みなのです。
  自分の力で手に入れることができるものによって自分の命を保ち豊かにしようとする者は、結局は《それを失う》ことになります。人間が自分で獲得できるものは、死を超えて人を生かすことはできないからです。命とは自分自身です。自分で自分を救おうとすることは不可能であって、無益な試みです。それに対して、イエスさまに従う者として《自分の命を失う者》、つまりイエスさまのために自分を捨て、自分を献げる者は、神から真実の命を受ける、あるいは神に真実の命を見いだすことになるのです。
  この献身の歩みは、すでにイエスさまを知り、この方による罪の赦し、永遠の命を受ける者とされている喜びの中で、軽やかに捨てていく、喜んで献げていく、そういう明るい、楽しい歩みのはずです。それは、この主日の礼拝へと集うときの足どりと似た軽さを持つものなのです。礼拝は、この時間をただ神との交わりのためだけに使います。神に時間を献げる。それは、喜びの時、楽しみの時ではないでしょうか。
  イエスさまの十字架は、十字架では終わりません。復活へと続いています。イエスさまの十字架は、この復活の光に照らし出された十字架です。私たちの献身の歩みも同じなのです。この地上での歩みを突き抜けて、天上へと、神の国へとつながっている歩みです。神の国の光に照らし出された新しい歩みなのです。イエスさまが私たちのために受けてくださったあの十字架の業を覚えて、日々、自分の十字架を背負い、神と人とを愛し、神と人とに仕える歩みをしていきたいと思います。


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