2019年7月14日  聖霊降臨後第五主日  ルカによる福音書9章51〜62節
「弟子の心構え」
  説教者:高野 公雄 師

  《51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。55 イエスは振り向いて二人を戒められた。56 そして、一行は別の村に行った。》

  ルカ福音書では、9章51からエルサレムに向かうイエスさまの最後の旅が始まります。そして、19章28からの段落でエルサレムに入ることが語られるまで、ほぼ10章にわたってこの旅の記事が続きます。この部分は「ルカの旅行記」と呼ばれるルカ福音書の中心部分ですが、旅程の詳細はなくて、その大部分はイエスさまの教えの言葉やたとえとなっています。
  巡礼者がガリラヤからエルサレムに向かう道は二つあります。南に隣接するサマリアを通る道と、サマリアを避けてヨルダン川の東側を迂回する道です。サマリアを通る道の方が近いのですが、ユダヤ人はサマリア人と交際していなかったので、普通はヨルダン川東の遠い迂回路を行きました。しかし、イエスさまは南のユダヤと北のガリラヤを行き来するとき、あえてサマリアを通る道を選びました。きょうの個所でもサマリアを通ってエルサレムに向かおうとします。イエスさまはユダヤ教徒とサマリア教徒を差別することなく、同じように「神の国」の福音を告げ知らせようとします。
  使いの者たちが入ったサマリアの村人は、イエスさまの使者を迎え入れようとしないで、拒否します。その理由は、《イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである》とされています。サマリアの村人たちは、イエスさまの一行がエルサレムに向かうユダヤ教徒の一団であることを知り、ユダヤ教徒に対する敵対意識から村に入ることを拒否します。このとき、弟子のヤコブとヨハネは、《主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか》と、とんでもないことを口にします。しかし、このような二人の憤慨と性急な発言をイエスさまは《振り向いて戒め》られました。

  《57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。》

  ペトロたちの場合もそうでしたが、イエスさまはお選びになった人に《わたしに従いなさい》と言って、ご自分に付いてくるように招きました。ペトロとヤコブとヨハネは《舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った》のでした(5章11)。
  受難の地であるエルサレムに向かって道を進むイエスさまに、ある人が《あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります》と言います。この人は、イエスさまがエルサレムに入られたならば《神の国はすぐにでも現れるものと思っていた》(19章11)人たちの一人だったのでしょう。その期待と決意に対してイエスさまは、ご自分に従う道は栄光の道ではなく、この世から拒絶される道であることを指し示します。《イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」》。これは、人の世の生き辛さを嘆く言葉ではありません。イエスさまがこのユダヤ教社会では排斥されて「枕する所もない」道を歩まなければならないことを語っているのです。ご自分に従おうとする者も、同じように扱われることを覚悟する必要があるということです。
  信仰の歩みとは、イエスさまに従っていくことです。しかし、イエスさまに従って生きていこうとするとき、さまざまな誘惑が私たちを襲います。一つは、人生の困難とでも言うべきものです。イエスさまに従うことが神の御心に従う道であるならば、神に守られて万事がうまくいく。そういうことであれば、人にもそう言って勧めることもできるでしょう。けれども、イエスさまはそのようには語りませんでした。誰の人生においても、困難な時はやって来ます。
  イエスさまは確かに《人の子には枕する所もない》と言い、その言葉のとおり十字架への道を歩むことになりました。しかし、だからといって神はイエスさまを見放していたということではありません。イエスさまは神と共に歩まれたし、神はそのときもイエスさまと共におられたのです。イエスさまに従うということは、まさに人生の困難という場面にさしかかっても、イエスさまが十字架へと歩んでいた時にも神がイエスさまと共におられたことを思い起こして、信仰を失わないということです。このイエスさまの《人の子には枕する所もない》という言葉は、イエスさまに従おうとする人をおどかしたり、覚悟しなさいとだけ言っているのではありません。この言葉は、あなたが枕する所がないという状況の中を歩まねばならないとき、それでも神の御手の中にあることを信じなさい、私(イエスさま)がその保証です、と言っているのです。イエスさまに従うということは、このイエスさまご自身が保証となってくださった神の守りの御手の中にある自分を発見し続けていくということです。
  次に私たちを待ち受けている誘惑は、家族の問題です。イエスさまに召されたときに、ここで二人の人が同じようなことを申し入れます。一人は、《主よ、まず、父を葬りに行かせてください》と言います。イエスさまはその人に、《死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい》と言われました。
  当時のユダヤ教においては、亡くなった父親を葬って葬儀をすることは、息子の大切な宗教上の義務でした。それを果たすためには、律法に規定されている他のあらゆる宗教的義務が免除されるほどの重要な義務だったのです。ですから、この人が「まず父を葬りに行かせてください」と言ったのは、当時のユダヤ教徒としては当然の願いでした。この人はイエスさまに従うことを拒んだわけではありません。けれども、宗教的義務を果たすことを第一とし、イエスさまに従うことを第二としたのです。
  また、別の人はこう言いました。《主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください》。イエスさまはその人に、《鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない》と言われました。これは先の死者を葬ることについての語録と同じく、「神の国」の福音を宣教する緊急性を語っています。イエスさまに従う決意をして「神の国」を告知する働きに乗り出した者で、《しかし、まず》と言って、家族の絆や世間の義理などを先にして、御国の福音を宣教する働きを後回しにする者は、《鋤に手をかけてから後ろを顧みる者》であって、神の国の働き人としてふさわしくないと言われたのです。ここで、私たちは、《何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい》(マタイ6章33)との御言葉を思い起こされます。
  《死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい》。《鋤きに手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない》。これをイエスさまの言葉なのだからと、私たちが文字通りに実行すれば、大変なことになってしまうでしょう。キリスト教は、決して家族を破壊するような宗教ではありません。十戒には《あなたの父母を敬え》(出エジプト20章12)とあります。キリスト教の信仰に基づいて人が生きるとき、家族は本当にしあわせで楽しいものです。このイエスさまの言葉は、家族は大切ですから、その家族との関係あるいは家族のあり方そのものが、イエスさまに従う中で変えられていかなければならない、ということを意味する言葉だと理解できます。
  神を、イエスさまを第一にして生きていこうとするときに、私たちの家族というものが、しばしばこの「第一の座」を主張して来ます。家族だけではありません。さまざまなものが「第一の座」を主張し始めるのです。この日本の社会の中において、「神を第一とする」という生き方を貫くのは、そう簡単ではありません。周りとの軋轢を生むこともままあるでしょう。
  私たちはイエスさまに従う者となりました。神を、イエスさまを第一とする者となったのです。しかし、この歩みは自分の信仰の熱心さや、強さによって貫かれていくものではありません。イエスさまに従っていくということは、神の守りと導きがなければ貫くことはできないことです。そして私たちは、どんな状況の中にあっても、神の守りと導きと祝福が私を離さないということを信じる者として召されているのです。この恵みの中に留まり続けることのできる幸いを、心から感謝したいと思います。


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